掲載時肩書 | 雪印乳業相談役 |
---|---|
掲載期間 | 1977/09/18〜1977/10/13 |
出身地 | 茨城県太田 |
生年月日 | 1885/03/28 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 92 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | 京北中学 |
入社 | 宇都宮牧場 |
配偶者 | 小学校教諭 |
主な仕事 | 足尾鉱毒救済運動、北海道酪農義塾、北海道製酪販売、北海道興農公社、牛乳>バター、チーズ,衆議員 |
恩師・恩人 | 松本小四郎、田中正造、宇都宮仙太郎 |
人脈 | 築山泰蔵、町村敬貴、佐藤貢、佐藤善七、塚本淳造、深沢吉平、瀬尾俊三(義弟)、佐上信一、戸塚久一郎 |
備考 | クリスチャン、「健土健民」主義 |
1885年(明治18年)3月28日 – 1982年(昭和57年)2月6日)は茨城県出身。実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家。北海道製酪販売組合連合会(現在の雪印メグミルク)、北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)の設立者。日本の酪農業の発展と北海道開発に功績を残し、”日本酪農の父”や”北海道開発の父”と呼ばれる。「健土健民」は黒澤の造語で、黒澤の言葉によれば、『健康と長寿を創造するには健康で豊穣な国土を創造すべし』と要約されるものである。この言葉の原点は田中正造の思想にあると考えられる。この言葉は酪農学園の建学の精神に含まれるほか、雪印の創業の精神にもなっている。
1.田中正造先生の天皇直訴事件
明治34年(1901)12月12日朝のこの直訴事件は、世間のうち、特に学生間に衝撃波のように広がっていった。やがて、内村鑑三氏を団長とする「災害地学生視察団」が組織され、現地に向かうことになり、東京都内を始め10指に余る学校から有志がぞくぞくと集まった。12月27日出発。私もその団に加わった。約1500人ほどの大視察団である。
栃木県の谷中村、群馬県の海老瀬村など被害の顕著な渡良瀬川沿岸の村々を回り、演説会を開いて、団はその日のうちに東京に帰った。なるほど百聞は一見に如かず。田畑のあちこちに、上流から流れてきた鉱毒の混じった泥をかき集めて塚にしたものが累々とある。土地の人はこれを“毒塚“と呼んでいた。その名の通り、塚には緑青が浮き上がっていて、見るからに毒々しい感じである。ある竹藪に行ったらば、太い竹がスポンスポンと簡単に抜ける。鉱毒のためだ。これではとうてい作物なぞ育つはずがない。累々たる毒塚の一つに、団長の内村鑑三氏は駆け上がって1500人を相手に一流の弁舌で演説した。
2.宇都宮仙太郎牧場で働く
明治38年(1905)、20歳の時、宇都宮牧場で牧夫となった。宇都宮さんは福沢諭吉と同郷で、彼の「西洋事情」などを読み、酪農を志して北海道に渡り、次いで米国で牛飼いの実地を学んだ人だ。帰国後は、本格的な乳牛飼育、酪農を進め、いわば北海道酪農の祖とでもいうべき人である。
当時の宇都宮牧場は、面積約10町歩(約10ヘクタール)、米国流の新式牛舎には20頭ほどの牛が飼われていた。酪農場の朝は早い。午前4時にはすでに牛舎の仕事が始まる。私は同僚が起きる1時間前、3時にかまどに火を入れ、飯を炊き、みそ汁をつくった。これは私がすすんで請け負ったことだった。というのは、飯を炊きながら火の前で本が読める。牧夫の仕事は、一日中働きづくめで、それ以外の時間では本も読めないからだ。畜舎の掃除で牛の糞出しと小便くみが辛い仕事だった。糞はモッコに担いで出す。まさに重労働だった。4,5か月の間は、夜になると身体がミシミシうずき、床に入っても寝返りがうてなかった。
3.北海道興農公社が総合農業の発展に貢献
昭和16年〈1941〉3月17日、北海道興農公社が発足した。私は、成り行き上、その社長に推された。昭和16年12月8日、いよいよ太平洋戦争に突入した。この公社は国策にあった北海道の発展、農民の生活向上につながる事業にまい進した。主力の製乳事業とは別に、土地改良事業も公社の重要な仕事である。公社の中に「農地部」をつくり、「酸度の矯正を目的とする石灰岩粉の生産」「排水用土管の製造」「軌道による客土事業」の3事業を行うことにした。
また、製乳、土地改良の他にいろいろの製造も行った。「酒石酸石灰の製造」「ゼラチン血粉」「粉しょう油」「人造肉」「準米」(豆粉、でんぷん粉に酵母を働かせビタミンを添加したもの)「バター羊かん」「乳酸菌飲料」「航空食」等々。なかでも愉快なのは「放屁薬」である。これは航空隊員が航空飛行をやると腹中にガスが充満して苦しむので、それを楽にしてやれないか、ということで考案した。乳酸菌を使い、落雁に似た品物であった。むろん、戦後はやめたが、かなり効果があったと聞いている。
くろさわ とりぞう 黒澤 酉蔵 | |
---|---|
『翼賛議員銘鑑』(議会新聞社、1943年)掲載の肖像写真。 | |
生誕 | 1885年3月28日 日本 茨城県久慈郡世矢村 |
死没 | 1982年2月6日(96歳没) 日本 北海道札幌市 |
墓地 | 札幌市の円山墓地 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 京北中学校 |
職業 | 実業家、酪農家、政治家、教育者 |
著名な実績 | 日本の酪農業の発展と北海道開発に貢献 |
影響を受けたもの | 田中正造 |
宗教 | キリスト教 |
子供 | 長男:力太郎(元酪農学園学園長) |
栄誉 | 勲三等旭日中綬章(1964年) 北海道文化賞(1966年) 勲二等旭日重光章(1970年) 勲一等瑞宝章(1981年) キリスト教功労者(第12回)(1981年) 従三位(1982年 死後叙位) |
黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月28日 - 1982年(昭和57年)2月6日)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家。衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(現在の雪印メグミルク)、北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)の設立者。日本の酪農業の発展と北海道開発に功績を残し、"日本酪農の父"や"北海道開発の父"と呼ばれる[1][2]。