掲載時肩書 | 鹿島会長・参議院議員 |
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掲載期間 | 1964/08/29〜1964/09/23 |
出身地 | 兵庫県竜野 |
生年月日 | 1896/02/02 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 外務省 |
配偶者 | 永富->鹿島(長女卯女) |
主な仕事 | ドイツ赴任3年余、鹿島建設、ジョイント・ベンチャー提唱初、参議員18年間、北海道開発長官、外交関係著書多数 |
恩師・恩人 | 養父・鹿島精一、本多熊太郎ドイツ大使 |
人脈 | 三木清、末川博士、吉屋信子、久米正雄、大鷹正次郎(山口淑子夫)、クーデンホーフ伯(母・青山みつ子)、塚田十一郎(鹿島社員) |
備考 | 実父(文人・篤農家) |
明治29年(1896年)2月2日 – 昭和50年(1975年)12月3日)は兵庫県生まれ。外交官、実業家、政治家、外交史研究家。法学博士。鹿島建設会長。鹿島建設「中興の祖」。参議院議員を18年間務める。第1次岸内閣の国務大臣北海道開発庁長官。戦前よりアジアの地域統合「パン・アジア」(汎アジア)を提唱し、生涯にわたりその思想のもとに行動する。国際平和に貢献があった人物に「鹿島平和賞」を表彰するなど文化的活動でも知られる。鹿島平和研究所が明治百年記念事業として企画し発刊した『日本外交史』全38巻により文化功労者の表彰を受けた。拓殖大学名誉教授、国際法学会理事、日本国際問題研究所会長、日本国際連合協会理事、経団連理事等を歴任。
1.クーデンホーフ・カレルギー伯爵の思想
大正11年(1922)最初の赴任地ドイツで本多熊太郎大使からクーデンホーフ伯爵(母親は日本人青山みつ子)を紹介された。伯爵の奥さんはイダ・ローランという有名なウィーンの女優であった。彼女は仏国のサラ・ベルナール、エレノア・デューゼと共に欧州の三大美女と言われていた。クーデンホーフ伯夫妻がベルリンに来たとき、本多大使がお茶に招待され、大鷹正次郎書記官(山口淑子夫)や私がお相伴した。
話題の中心はパン・ヨーロッパとドイツの文学及び演劇の問題であった。その頃私以外まだ誰もパン・ヨーロッパ問題に関心を抱いていなかった。またイダ・ローラン夫人に演劇文学について話を持ち出したのは私だった。私の外交官生活で、ロシアやドイツ文学知識が社交に役立ったのはこれが初めてである。
その翌日、クーデンホーフ伯のパン・ヨーロッパ(欧州統合論)に関する講演を聞いた。伯爵を世界的に著名にしたのは、彼の名著「パン・ヨーロッパ」で私が翻訳することとなった。その交渉でイダ・ローランさんがベルリンに来ては私に電話をかけてくれ、行ってみるとそこには有名な文人や思想家が集まっていた。
2.私の諸著作
私はドイツ大使館在勤中大正13年(1924)11月、日本で「欧州の現勢とその将来」を出版し、次いで2年後の15年4月「汎アジア運動と汎ヨーロッパ運動」を刊行した。この2著は本多大使より高く評価された。昭和2年(1927)4月にはクーデンホーフ・カレルギー著「パン・ヨーロッパ」の翻訳を国際連盟協会から出版した。
また、日英外交に関する外交文書やドイツ政府が発表の「欧州内閣の大政策」、フランス政府発表の仏国外交文書など多くを読み、これら諸外国の外交文書研究の成果を、昭和9年10月に「世界大戦原因の研究」、「日本外交政策の史的考察」(同13年5月)、「ビスマルクの外交政策」(同14年4月)等を寄稿。
3.鹿島建設の経営2大原則
私が鹿島建設に関係したのは昭和11年(1936)4月からであるが、当時の鹿島組は明らかに大きな転換期を際会していた。私は会社の復興を図るについて、土建事業と会社経営に関する書物を、日本だけでなく各国からも集め、また多くの専門家の意見を聞いた。そして「事業成功の秘訣20か条」を決めた。
私がそれを基に鹿島建設の経営に当たって、直ちに提唱し、実践したことは①施工能力の増強、②科学的管理の2大原則である。科学的管理の骨子は、予算統制と経営比較であり、またマーケット・リサーチを重視した。そしてマーケット・リサーチの結果、私は工事受注方針を大きく転換して、これまでの鉄道工事偏重から時代の産業である建築および電力工事へ積極的に進出した。
その受け入れ態勢として、施工能力の増強と科学的管理の実施を図ったのである。施工能力を拡大すれば、大量施工による合理化、コストの低下が可能となる。しかし施工量が大きくなればなるほど経営が粗雑になる傾向があるから、科学的管理による経営の性格さと、ち密化が必要となってくるのである。私は事業は理性によって指導され、公正な原理によって統制されるべきものと考えたのである。
かじま もりのすけ 鹿島 守之助 | |
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生誕 | 永富 守之助 (ながとみ もりのすけ) 1896年2月2日 日本 兵庫県揖保郡半田村新在家(現たつの市揖保川町新在家) |
死没 | 1975年12月3日(79歳没) |
墓地 | 曹洞宗吉祥寺(文京区本駒込) |
国籍 | 日本 |
別名 | 鹿嶋 守之助 |
出身校 | 東京帝国大学法学部政治学科 |
職業 | 外交官、実業家、政治家 |
著名な実績 | 外交史研究 鹿島建設の発展 パン・アジアの提唱 |
影響を受けたもの | クーデンホーフ=カレルギー伯爵の世界平和思想 |
肩書き | 鹿島建設会長 |
任期 | 1957年–1975年 |
前任者 | 鹿島精一 |
後任者 | 鹿島卯女 |
配偶者 | 鹿島卯女 |
子供 | 伊都子、ヨシ子、三枝子、昭一 |
親 | 永富敏夫、永富くわん |
親戚 | 梁瀬次郎、稲山嘉寛、中曽根康弘 |
受賞 |
鹿島守之助 | |
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所属政党 | (自由党→) 自由民主党 |
第14代 北海道開発庁長官 | |
内閣 | 第1次岸内閣 |
在任期間 | 1957年4月30日 - 1957年7月10日 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1953年5月3日 - 1971年7月3日 |
鹿島 守之助(鹿嶋 守之助[8]、かじま もりのすけ、明治29年(1896年)2月2日 - 昭和50年(1975年)12月3日)は、日本の外交官、実業家、政治家、参議院議員(3期)。位階は正三位。北海道開発庁長官(第14代)、外交史研究家。文化功労者。法学博士。鹿島建設会長。鹿島建設「中興の祖」[9]。戦前よりアジアの地域統合「パン・アジア」(汎アジア)を提唱し、生涯にわたりその思想のもとに行動する。旧姓永富(ながとみ)。