掲載時肩書 | 元首相 |
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掲載期間 | 1958/06/10〜1958/06/26 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1883/01/01 |
掲載回数 | 16 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 父の法 律事務所 |
配偶者 | 従兄妹 薫子 |
主な仕事 | 東京市会議員、衆議員、明鏡止水(辞任)、自由党民主党総裁、首相、日ソ復交 |
恩師・恩人 | 三木武吉、鈴木喜三郎(義兄) |
人脈 | 原敬・渋沢栄一(父友)、林譲治、森恪、美濃部達吉、石橋正二郎、芦田均、松野鶴平、大野伴睦、河野一郎、堤康次郎、岸信介 |
備考 | クリスチャン、父衆議院議長 |
1883年〈明治16年〉1月1日 – 1959年〈昭和34年〉3月7日)は東京生まれ。政治家、弁護士。1912年(大正元年)に東京市会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議員に当選して以来、政党政治家として活動。1954年(昭和29年)-1956年(昭和31年)の首相在任中、保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となって55年体制を築き、日本とソビエト連邦の国交回復を実現した。第52・53・54代内閣総理大臣。
1.賢弟・1歳違いの鳩山秀夫
私は府立一中を4年で一高を受けて合格したが、一番で入れると思っていたが20何番目なのでびっくりした。世の中にはもっとできる人間がいると思ったからだ。しかし弟は翌年受けて、期待通りのトップだった。
この弟は元来、むやみにできる男で、勉強というのも大してやらないで出来るのだからかなわなかった。彼が一高から東大に入るころは既に英、仏、独語を自由に駆使するようになっていた。国際法の答案などで、ドイツ人の学説を引用する時は、ドイツ語で書き、英人のは英語でというようにしたので、点のつけようがなく、140何点とかをくれたこともあるそうだ。一高を卒業する時の平均点は90何点という開校以来の記録だったのである。
2.三木武吉への感謝
三木とは東京市会議員として行動の上では党派の違いから対立して、なかなかうまくいかなかったが、とにかくウマあったというのか、二人の間はお互いいいことは助け合おうということで付き合ってきた。個人的な喧嘩など一度もないほどである。三木は昔から面白いやつだったが、それだけでなく、私をして心服させるだけの何物かを持った男であった。
戦後、私と夢を同じくするようになってからは「兵に将たるも器は鳩山である。だからオレは鳩山を担ぐのだ」と言っていたらしいが、何かにつけて、本当によく私を助けてくれた。私は今でも彼に対する感謝の気持ちを忘れてはならないと思っている。
3.吉田茂君に・・・「総裁」を貸して「政党」をとられる
戦後パージになったとき、私は周知のように吉田君にバトンを渡した。これを後になって俗っぽい表現で言うと「ひさしを貸して母屋を取られる」ということになった。そのときの状態を言うと、初め吉田君は牧野伸顕がそういう意見だったようで、自分は適任者ではないからと言って引き受けなかった。そこで他のある人に任せようと思ったが、河野一郎、三木武吉や他の連中が皆反対するのでダメになる、こうなればどうしても吉田君以外にないと思って、とうとう口説き落としたわけだ。
そのとき吉田君は、自分はどうしても政党の総裁の座を長くあたためることはできないから、君のパージが解けさえすればすぐやめると言っていた。私としても、別に戦争に加担したわけではないから、パージなぞ直ぐ解けると思っていたのである。それが引延し、引延しを重ねた。これはおかしいと思っていると、私の解除については、吉田君が邪魔をしているということを岩淵辰雄君やマッカーサーの幕僚からも聞かされた時は、さすがに私も激怒した。
それでは、吉田君と喧嘩するより仕方がないと思っていた矢先、私は脳溢血で倒れてしまったのである。怒るということは健康には一番悪いことだと身に沁みて感じたのだった。今でも私は吉田君は善良な人だとは思っていない。パージ問題以後は、私は彼と友達ではないことにしているので、こっちから訪ねる気はさらにないのである。この前の総選挙の直前、吉田君が音羽に来た時は、ベランダでしばらく話をしたが、どうしても心のわだかまりは氷解しなかったのであった。
鳩山 一郎 はとやま いちろう | |
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鳩山 一郎 (1954-1956年の間に撮影) | |
生年月日 | 1883年1月1日 |
出生地 | 日本・東京府東京市牛込区 (現:東京都新宿区) |
没年月日 | 1959年3月7日(76歳没) |
死没地 | 日本・東京都文京区 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学英法科卒業 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | (立憲政友会→) (政友本党→) (同交会→) (立憲政友会→) (無所属→) (翼賛政治会→) (大日本政治会→) (日本自由党→) (無所属→) (自由党→) (分党派自由党→) (自由党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 | 正二位 大勲位菊花大綬章 衆議院永年在職議員 法学士(東京帝国大学・1907年) |
配偶者 | 鳩山薫 |
子女 | 鳩山威一郎(長男) 古沢百合子(長女) 鳩山玲子(次女) 鳩山節子(三女) 山中恵子(四女) 渡邉信子(五女) |
親族 | 鳩山和夫(父) 鳩山春子(母) 鳩山秀夫(弟) 鳩山道夫(甥) 鳩山由紀夫(孫) 鳩山邦夫(孫) 鳩山太郎(曾孫) 鳩山二郎(曾孫) 鳩山紀一郎(曾孫) 鳩山玲人(曾孫) |
サイン | |
第52-54代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 第1次鳩山一郎内閣 第2次鳩山一郎内閣 第3次鳩山一郎内閣 |
在任期間 | 1954年12月10日 - 1956年12月23日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第40代 文部大臣 | |
内閣 | 犬養内閣 齋藤内閣 |
在任期間 | 1931年12月13日 - 1934年3月3日 |
第28代 内閣書記官長 | |
内閣 | 田中義一内閣 |
在任期間 | 1927年4月20日 - 1929年7月2日 |
選挙区 | (東京市選挙区→) (東京府第10区→) (東京府第2区→) 旧東京1区 |
当選回数 | 15回 |
在任期間 | 1915年3月26日 - 1946年5月7日[1] 1952年10月2日 - 1959年3月7日 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1912年4月2日 - 1915年3月26日 |
その他の職歴 | |
初代 自由民主党総裁 (1956年4月5日 - 1956年12月14日) |
鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年〈明治16年〉1月1日 - 1959年〈昭和34年〉3月7日)は、日本の政治家、弁護士。
第52・53・54代内閣総理大臣。位階勲等は、正二位大勲位。55年体制が成立してから初の総理大臣であった。