掲載時肩書 | ドトールコーヒー名誉会長 |
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掲載期間 | 2009/02/01〜2009/02/28 |
出身地 | 埼玉県 |
生年月日 | 1937/10/11 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 高等学校 |
学歴その他 | |
入社 | キッチン 清水 |
配偶者 | |
主な仕事 | レストラン、喫茶、ブラジル、ドトール独立(24)手形60枚(650万)FC化、経営学院、ハワイ農園 |
恩師・恩人 | 豊竹良 喫茶店主 |
人脈 | 清水コーヒー社長、武者小路実篤、桜田 彗、似鳥昭雄、堺屋太一 |
備考 | 至誠天に通ず |
昭和12年(1937)埼玉県生まれ。16歳で上京。見習いコック、バーテンダー経験。19歳のコーヒーショップ店長。昭和34年(1959)ブラジルに単身渡航。コーヒー農園工場の現場監督。世界一周後に帰国。昭和37年(1962)ドトールコーヒーを創業、社長。フランチャイズ展開。平成3年(1991)ハワイにコーヒー農園取得。平成12年(2000)東証一部上場。平成17年(2005)会長、同18年(2006)名誉会長。
1.ブラジルに単身渡航から始まる
昭和34年(1959)20歳のとき、以前の勤め先の主人からブラジルのコーヒー農園に招かれ、単身渡航し、農園の現場監督として現地の労働者と共に汗を流して働いた。コーヒーの本場ブラジルで学び、生活したことが体の中に染み込み、何ものにも替え難い財産になったという。この経験が、コーヒーの選別、品質、焙煎、コーヒー農場経営への成功に導くことになる。彼はブラジル修業のあと、世界一周後に帰国。昭和37年(1962)ドトールコーヒーを創業し、全国にコーヒチェーンをフランチャイズ展開して産業化に成功した。
2「働き一両、考え五両」の気づき
彼は学歴がなく、若くして経営者になったため、かえって尊敬する年長の経営者からのいろいろな助言を真摯に受け止めることができた。その一つが「長の一念」という言葉だった。
「課なら課長、部なら部長、社なら社長であるが、長として上に立つ人の一念によって環境がすべて変わる。問題は社員ではなく、トップにある社長にある」と悟ったのだ。
そこで、自分が納得する「言葉」や「格言」を色紙に書いて「自分の考えを共有化」するため、会社に張り出すのを習慣とした。彼はその心構えの原点を、次のように語っている。
「ある時、ゴルフをしているとコースの途中になぜか石碑があり、『働き一両、考え五両』と彫ってあった。私は『はっ』と立ち止まった。凄い言葉だと思い、記憶に留めた。考えとはアイデアのことだと私は理解した。
一の努力は一の成果しか生まないが、アイデアを持って一の努力をすれば五の成果が出る。世の中には努力する人や一生懸命な人はゴマンといる。アイデアを持って努力しなければいけないと痛感した。私はこの言葉を非常に気に入り、紙に印刷し工場や本社に貼った」
3.不振店舗への対応
鳥羽はブラジルコーヒー農園での修業後、昭和37年(1962)24歳の春にドトールコーヒーの卸業を設立した。コーヒーの卸先は徐々に増えていったので、同47年(1972)店頭でコーヒー豆も販売するコーヒー専門店を開店させる。直営一号店のコンセプトは「健康的で明るく、老若男女とも楽しめる店」の「カフェコロラド」であった。このコロラドの大成功でチエーン店を希望するオーナーが続々と現れ、急激に店舗網が拡大していった。
しかし、オーナーの性格などにより経営不振に陥る店もあった。彼は当初どう対応したらよいか分からず非常に苦しんだという。しかし、悩みに悩んだ揚げ句、電撃の如く「店の魅力、商品の魅力、人の魅力」と閃めいた。店の魅力とはお客様に、そこにいる事が何とも心地いいと思ってもらえることで、しかも、外から見て気持ちよさそうだと感じなければ入ってきてくれないと気づいた。かれは、その気づき場面を次のように語っている。
その事を何度も指導するうち、オーナーと私の「魅力の基準、努力の基準」が違う事に気づいた。そこで社員と共に不振店に行き、装飾物を全部外して作った時の状態に戻し、徹底して清掃した。外観の塗装をやり直し、壁や床、椅子も磨き込み、その上で私の基準で絵、花、置物、椅子などを置き直し、売店の商品も並び替えた。店は見違えるようになった。翌日から売り上げは二割増えた。
鳥羽 博道(とりば ひろみち[1]、1937年10月11日[2] - )は、日本の実業家。株式会社ドトールコーヒー創業者・名誉会長。
有限会社ドトールコーヒー代表取締役社長、東京マグナ株式会社代表取締役社長、株式会社マドレーヌコンフェクショナリー代表取締役社長などを歴任した。