掲載時肩書 | 中政連総裁 |
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掲載期間 | 1965/01/01〜1965/02/01 |
出身地 | 山口県 |
生年月日 | 1880/11/06 |
掲載回数 | 32 回 |
執筆時年齢 | 85 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 山口高 |
入社 | 芝浦製作所 |
配偶者 | 久原房之介姉 |
主な仕事 | 米国職工、戸田鋳物->東洋・日立、安来製鋼->日立金属、東亜電機->日立製作、久原鉱業->日本産業、満州重工業、中小企業政治連盟 |
恩師・恩人 | 井上馨侯、久原房之助、貝島太郎、藤田小太郎未亡人 |
人脈 | 益田信世(孝:次男)、大谷米太郎、田中義一、藤山雷太、岩田宙造、松岡洋右、石原莞爾、高崎達之助、山下太郎、小川栄一 |
備考 | 日本産業グループ総帥、大叔父井上馨(姉の二女:実母) |
1880年(明治13年)11月6日 – 1967年(昭和42年)2月13日)は山口県生まれ。実業家、政治家。日産コンツェルン創始者。満州重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。1956年(昭和31年)、日本中小企業政治連盟(中政連)を創立し総裁に就任する。鮎川も、その後主として政治家としての晩年を送った。また同年設立された全国中小企業団体中央会の会長にも就く。鮎川もこの間、岸内閣経済最高顧問、東洋大学名誉総長を務めた。産業計画会議委員(議長・松永安左エ門)就任。明治の元勲・井上馨の(姉の娘)姪が母。
1.井上馨侯爵の弁護
私の大叔父にあたる明治の元勲・井上侯について、海音寺潮五郎氏は侯を「悪人列伝第四巻」におさめ、司馬遼太郎氏は「貪官汚吏の巨魁として悪名を残した」と記している。私は少年期から侯の謦咳に接し、壮年期にはしばらく侯の身近に暮らして、親しく薫陶を受けた人間で、その間の真相を見聞している私としては、公平に批判して井上さんは不正のできる人ではない、むしろ律儀な正直者の親分といった方が当たっていると思う。
侯は、私が中学5年に進級したころ、還暦の賀を山口で催された。旅のお伽を承っていた三遊亭円朝には中学、高校生全部に“塩原多助一代記”を話させた。もとより本場の噺家、しかも名人の一席は聴衆にこよなき感銘を与えたもので、当時の印象は長く防長教育会の人々の語り草となって今に残っている。
また、伊藤博文公爵と井上侯の交友ぶりはいまさら言う必要はないが、侯は公よりも6つ年上であるにもかかわらず、いつも公の楯となっていた。それは早くから、公にかなわぬ長所を認めて、これを助けるのが国のためと信じていたおおらかな親切心の現われに他ならない。
2.米国で職工修業
日露戦争が終わった明治38年(1905)11月、私は益田孝さんの二男信世君と北米シアトルに渡った。そこで鋳物工場の見習い職工として週給5ドルで採用された。この職場の私の仕事は、砂込めから湯運び、それから鋳上がった品物のかき集めに至る一連の作業が、日課として与えられた。その中で反射炉から流れ出る熔鉄を順繰りに取鍋に受け、駆け足で持ち場の鋳型のところまで運んで湯注ぎをする。それが済むと再び反射炉に戻って熔鉄を取鍋に受ける、運ぶ・・・、この運動を数回繰り返す仕事があった。この労働は向こうでもかなりの苦役とされていた。日本では取鍋をいれてせいぜい4,5貫(約18kg)であったものを、向こうは倍ぐらい、しかも一気呵成にやるのだから、芝浦では一人前だった私も、ここに来ては問題にならなかった。私は毎日、綿のように疲れ切って帰宿した。足の甲に湯が垂れて火傷をしたのもそんな時である。しかし一方、“日本人は体が小さくても大男のロスケをやっつけた”という評判が、この田舎町にも行き渡っていた手前、私は火傷が治ってからも頑張りとおした。
ところが意外なことに、二週間もすると、彼ら並みにやれるようになったではないか。これには自分ながらびっくりした。二週間やそこらで腕力が増すはずがないのに・・・。これは練習の効果が体力以外の、いわゆるコツを呼び起こしたのである。私は中学時代に柔道を習ったが「あのコツだ」と思った。
3.巣鴨大学(刑務所)で共産主義を理解
昭和20年(1945)の暮れ、私は準A級戦犯として「巣鴨大学」に送り込まれたのである。私はそこで2年足らず「全寮生活」に親しんだが得るところ大であった。卒論の一つとして、「共産主義」の感想である。
巣鴨大学こそ絶対平等の共産主義の道場と見るべきものだった。ところが「入学」後、居についてみると、長い鉛筆は短いのとすり替えられ、配食の中身や分量はヤミ取引されて物議をかもすありさま。また配給のたばこが飯つぎ当番の賄賂・・・になど。絶対平等であるはずの掟も、いつとはなしに錆がついてくる。
このことはかって(1940年)在満当時、見聞した白系ロシア人の部落ロマノフカ村の例でも明らかだ。この村の発生は、4,5年前ロシアの赤化を嫌って逃げてきた鍛冶屋と大工の二人から始まったと聞かされた。その後人口が増えて、私が現地を訪ねたときは、150人ぐらいになっていた。彼らははじめ土地を均等に割り当て、お互いが助け合って生活していた。いわばこの村の環境は共産主義の実施にあつらえ向きであった。ところがそのうち働き者と怠け者、丈夫な者と弱い者が現れ、なかには他人に土地を売ってしまう者が出て、各人の間に相当の格差ができてしまった。
すなわち、適者生存の法則はどこまでも真理であることを学んだ。人類の長い歴史は、獣の時代の方が幾万倍か長かったであろうから、境遇次第で動物の本性が首をもたげるのも自然の現象と考えなくてはならない。そこで共産主義はいずれにしても不自然な現象と考えなくてはならないと思った。
鮎川義介の肖像 | |
生年月日 | 1880年(明治13年)11月6日 |
出生地 | 日本 山口県吉敷郡大内村 |
没年月日 | 1967年2月13日(86歳没) |
死没地 | 日本 東京都千代田区 |
出身校 | 旧制山口高等学校卒業 東京帝国大学工科大学卒業 |
所属政党 | 第十七控室 |
称号 | 工学士(東京帝国大学・1903年) 勲一等瑞宝章(1967年) 従三位(1967年) |
配偶者 | 鮎川美代 |
親族 | 井上馨(大叔父) 久原房之助(義弟) 鮎川弥一(長男) 鮎川金次郎(二男) 鮎川純太(孫) |
選挙区 | 勅選議員 |
在任期間 | 1943年1月14日 - 1945年12月15日 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1953年5月3日 - 1959年12月29日 |
鮎川 義介(あゆかわ よしすけ/あいかわ よしすけ[1][2][3][4]、 1880年(明治13年)11月6日 – 1967年(昭和42年)2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者[5]である。満洲重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長[1][2][3][4]、参議院議員などを歴任した。