掲載時肩書 | アシックス社長 |
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掲載期間 | 1990/07/01〜1990/07/31 |
出身地 | 鳥取県 |
生年月日 | 1918/05/29 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | |
入社 | 西井商事 |
配偶者 | 坂口 >鬼塚、見合11歳下 |
主な仕事 | 鬼塚商会、バスケ・マラソン靴、社員に自社株7割譲渡、鬼塚会、多角化、アシックス(総合スポーツ用品会社に)スポーツ工学研究所 |
恩師・恩人 | 堀公平、松本幸雄、矢仲ゴム社長 |
人脈 | 藤井勇、水野祥太郎教授、寺沢徹選手、八田一朗、アベベ選手、アシックス(寺西光治・臼井一馬) |
備考 | ASICS(イニシアル:健全なる精神には健全なる肉体)、120組仲人 |
1918年(大正7年)5月29日 – 2007年(平成19年)9月29日)は鳥取県生まれ。日本の実業家で、アシックス創業者。1964年東京オリンピックでは、オニツカの靴を履いた選手が体操、レスリング、バレーボール、マラソンなどの競技で金メダル20個、銀メダル16個、銅メダル10個の合計46個を獲得。1968年(昭和43年)に全日本運動用品工業団体連合会を設立。1974年(昭和49年)社団法人日本スポーツ用品工業協会に改組し、後の会長に就任。1983年(昭和58年)には世界スポーツ用品工業連盟の会長に就任、開発途上国へのスポーツ用具寄贈などを実現した。
1.バスケットシューズの着眼点発見
昭和24年(1949)から翌年春にかけて、物資配給制という戦後統制が徐々に解除された。これでやっと思うような材料が手に入り自由に物づくりができる。喜び勇んでスポーツシューズづくりに乗り出した。
そこで西井商事に勤めていた時知り合った兵庫県バスケットボール協会理事長で県立神戸高校バスケットボール部監督の松本幸雄さんに相談した。松本さんは即座に「バスケットシューズはどうや」と勧めてくれた。将来きっと、米国のように盛んになるという。当時、大抵のシューズはズック靴か、地下足袋で代用していたころだ。最初は見よう見まねでデザインして、木型をこしらえ、甲被をミシンで縫う。ゴム底のゴムを配合しながら、底の意匠を考える。試行錯誤しながらもうまくいかない。松本先生はあきれるばかりだった。
「本気で作るなら、練習場へ来て球拾いをしながら、選手の足の動きをよく見ろ」と先生の忠告に従い、それからは暇があるとコートに通い、選手一人ひとりから希望を聞くとともに、改良品づくりを目指した。松本さんに「残る改善点は滑りすぎ。急ストップ、急スタートできたら合格」と言われるまでになった。
26年〈1951〉夏のある日曜日、会社は休みで私一人、自宅隣の空き地に建てた掘っ立て小屋の仕事場にこもっていた。夕方、食事をしようと茶の間に上がると、おふくろが作ったキュウリの酢の物が並べてある。なかにあったタコの足に目が止まり、思わず「これだ」とひらめいた。あの吸い付いたらなかなか取れないタコの足の吸盤だ。この原理を靴底に応用すればピタッと止まれるに違いない。全体を吸着盤のようにした凹型の底を考案、履いて走ってみるときゅっと止まる。それっと松本さんのところに飛んで行った。
2.マラソンシューズのヒント
マラソンランナーのひたむきに走る姿は感動的だ。私の好きなスポーツの一つである。そのマラソンシューズの開発に没頭した時期がある。日本のマラソン界では戦前から地下足袋のような「金栗たび」が使われていた。走りやすいが、必ずマメができるのが難点だった。昭和28年〈1953〉、まず実地見学をと別府マラソンを観戦した。ゴールで選手を待ち構え、足を調べさせてもらうと皆一様にマメが潰れ、何とも痛々しい。
トップランナーの寺沢徹選手に「そんなにマメができたらマラソンが嫌になるでしょう」と素朴な疑問をぶつけると「いや、そうじゃない。マメを克服してこそ一流の選手」と反論された。
人間の身体はやっぱり医者が一番よく知っているはずと、大阪大学医学部の水野祥太郎教授を訪ねた。走るとなぜマメができるのかと聞くと、「火傷の後に水膨れができる。あれはリンパ液が外部から侵入して来る菌を食い殺したり、炎症を起こしたところを守っているせいで、それと同じ」と明快な説明だった。
いかに衝撃熱を冷やし、足の裏の炎症を軽くするか。ある日タクシーに乗るとエンジンが過熱して動かなくなった。ラジエーターの水がなくなったらしい。それなら水で足を冷やせるようにしたら解決だ。モノは試し、と底に水を入れた靴を作ってみると重いし、ピチャピチャ音がしてふやけてしまう。原理は分かっても、応用は容易ではなかった。水冷式がダメなら今度は空冷式のオートバイだ。上部に目の粗い布を使い、前と横に穴をいっぱい空けて風通しをよくした。着地した時、足と中底の間に溜まった熱い空気が吐き出され、足が地面から離れると冷たい空気が流れ込む。二重底で衝撃を和らげるとともに、空気を入れ替える構造で、特許を取得した。寺沢選手はこの靴を試しに使ってくれ、痛みやマメも出ない靴に信じられないという表情をした。
3.オリンピックで成果
「オニツカタイガー」の競技用シューズがオリンピック選手に正式採用されたのは昭和31年(1956)のメルボルン(オーストラリア)大会からだ。マラソンと日本選手団が開会式などに履くトレーニングシューズが第一号だった。35年(1960)のローマ・オリンピックではオニツカのシューズを履いたレスリングと体操の選手が日の丸を揚げる快挙を演じた。
八田一朗監督率いる日本レスリングチームは苦戦との戦前の予想を覆して健闘、フェザー級の笹原正三選手などが金メダル獲得した。体操は鉄棒で小野喬選手がソ連、東欧の強豪を相手に金メダルだ。見事優勝の瞬間、会場にいた私は思わず観客席から飛び降りて監督、選手に抱き付いてしまったほど感動した。レスリングは競技人口も少なく、とても採算に合いそうにない。それでもシューズ開発を進めたのは八田さんのレスリングにかける情熱に打たれたからだ。格闘技だから相手に傷をつけそうな金属品は一切使わず、柔らかくてしかも滑らない靴を作ろうと心掛けた。この靴がいくらかでも優勝に貢献したかと思うと、これはもう商売を離れた喜びというものだ。
いよいよ1964年の東京五輪、当時としては破格の三千万円をつぎ込み、日本だけでなく、外国選手にも多くのタイガーシューズを提供した。オニツカの靴を履いた選手が取ったメダルの数は体操、レスリング、バレーボール、マラソンなど金20,銀16,銅10の合計46個だった。