掲載時肩書 | 日商岩井相談役 |
---|---|
掲載期間 | 1972/10/15〜1972/11/09 |
出身地 | 愛媛県内子町 |
生年月日 | 1887/03/21 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 85 歳 |
最終学歴 | 神戸大学 |
学歴その他 | |
入社 | 鈴木商店 |
配偶者 | 鈴木岩次郎社長娘 |
主な仕事 | 倫敦、s2.4.2倒産、鈴木商店(神戸製鋼、帝人、東京汽船、日商)、広野ゴルフ場、日本火災海上保険、日商岩井 |
恩師・恩人 | 水島校長 金子直吉 |
人脈 | 出光佐三・永井幸太郎・和田恒輔(神戸高商)西川文蔵(支配人:政一岳父)、松方幸次郎 |
備考 | ゴルフ ルールブック |
明治20年(1887年)3月21日 – 昭和53年(1978年)9月19日)は愛媛県生まれ。実業家。日商株式会社(後の日商岩井、現・双日)の元会長。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、鈴木商店の番頭金子直吉の指示で投機的な買付を指揮する。また本国を介さない三国間貿易を日本人として初めて手がけ、鈴木商店のビジネス拡大に大きく貢献した。1927年に鈴木商店の経営が破綻すると、1928年高畑は、台湾銀行の森広蔵頭取や三菱財閥の各務鎌吉などの支援を得て、永井幸太郎とともに、鈴木商店の子会社だった日本商業会社を日商株式会社と改め再出発を図り、同社を日本でも屈指の総合商社に育て上げる。1957年には日本火災海上保険(現・損害保険ジャパン日本興亜)の社長に就任している。
1.1912年頃のロンドン駐在店
明治42年(1909)3月、私は神戸高商・水島校長推薦で大番頭・金子直吉氏との面談を経て初めての”学校卒“として鈴木商店に入社した。当時は、樟脳、はっか、麦粉、外米、砂糖などを扱っている小さな貿易商だった。私がロンドンに赴任した明治45年(1912)ごろの英国は、大英帝国の絶頂期だったと思う。ロンドンは文字通り、世界の政治、経済の中心で、いずれの国にも引けを取らなかったのは事実だった。
その当時、ロンドンに駐在員を置いていたのは、鈴木商店以外に、商社では三井物産、金物、機械関係の大倉組、高田商会、生糸の原合名、羽二重の堀越、雑貨の野沢組などで、三菱商事の事務所はまだなかった。また銀行も横浜正金銀行(東京銀行の前身)ぐらいで、三井や台湾銀行は第一次大戦以後である。
2.大番頭・金子直吉氏
一介の砂糖商だった鈴木商店を30年足らずの間に、日本を代表する企業集団のトップクラスに押し上げたのは金子さんの指導力によるものである。金子さんが本領を発揮するようになったのは、初代社長の鈴木岩次郎が明治27年(1894)に53歳で亡くなってからである。岩次郎の未亡人、よねさんから、兄弟番頭の柳田富士松さんと金子さんの二人が、鈴木商店の経営を全面的に任されるようになった。大躍進のきっかけは、金子さんの着眼で、台湾の樟脳を扱うようになってからである。金子さんの才気が、当時の台湾の後藤新平民生長官に認められ、明治32年((1899)に台湾の樟脳が政府の専売制に切り替えられたとき、その65%もの販売権が、鈴木商店に任されたから、一気に取扱高が膨れ上がると同時に、発展の基礎となった。
金子さんは、スタイルなどお構いなし、年中ねずみ色の服を着ており、ズボンにはめったに折り目がついていない。寒がりで夏でも腹にカイロを抱き、一方で頭は冷やしておかなければいけないからと、氷嚢をのせ、氷嚢が落ちないようにクシャクシャの中折れ帽をいつも被っていた。
3.松方幸次郎氏の美術観
金子さんは川崎造船所(現川崎重工業)の社長松方幸次郎さんと昵懇だった。その松方さんが、第一次大戦がエスカレートしてきた大正5年(1916)にロンドンにやってきた。ロンドンでは神戸の本社(川崎造船所)や取引先との連絡などのため、私のいた鈴木商店のロンドン支店オフィスの一室を便宜上使っておられた。
松方さんはハイドパーク近くのクイーンアンス・マンションというホテル式の高級アパートに泊まられていた。異国の一人住まいの無聊を慰めるために、「造船所風景」や「ハンマーを振るう労働者」などの絵が飾ってあった。松方さんはこのような数点の絵を部屋に飾って鑑賞しているうちに、絵に病みつきになられたらしい。川崎造船所の大量の船が第一次大戦の開戦と同時に引っ張りだこで高値で売れ、懐が暖かくなっていたのだろう、気に入った絵があれば手当たり次第に買い集められるようになった。
松方さんの絵の買い方は、鷹揚なものだった。気に入った絵があれば、一度に20,30点まとめて買うことも珍しくなかった。絵画だけに限らない。彫刻、さらには、イスやテーブルなどの骨董品もかなり集められた。松方さんは美術品の世界的なコレクターと言われるようになっても、「おれは、もともとそんなに絵が好きでもないし、買いたくもないのだ。三菱の岩崎さんのような人がこういう仕事をしてくれれば一番いい。ひょんなきっかけで、私が柄にもなく、美術品を買い集めるハメになった。日本のために役立てば、誰がやっても同じだからね」と私に言われたことがあった。
4.鈴木商店の倒産と再出発
昭和2年(1927)4月2日に鈴木商店は倒れた。一時は三井、三菱と並ぶほどの勢いだった鈴木の倒産で、昭和の金融恐慌は火に油を注がれた格好になった。私はまだ40歳になったばかりで、歳も若かった。再起を目指す仲間を代表する格好で、神戸高商時代からの盟友、永井幸太郎君と私が新会社の設立に乗り出した。新会社は鈴木商店の直系会社で永井君が専務として事実上の采配を振るっていた日本商業を改組して名称「日商株式会社」を設立することにした。
昭和3年(1928)2月に新発足した当時の日商は、社長の下坂藤太郎さん以下、社員合わせて総勢たった40人。権勢を誇った鈴木商店時代とは比較にならぬ、まことにちっぽけな会社だった。当初の資本金は百万円。日商の社長を引き受けて下さった下坂さんや三菱財閥の長老、各務(かがみ)謙吉さんなどのご好意による出資金、それに旧日本商業が台湾銀行、第六十五銀行、横浜正金銀行へ返済すべき債務を新会社の出資金に振り替えてくれた分で合計81万5千円。残りの18万5千円を新会社で再起を目指すことになった我々、鈴木の残党が捻出した。