掲載時肩書 | フッション・デザイナー |
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掲載期間 | 2016/12/01〜2016/12/31 |
出身地 | 兵庫県 |
生年月日 | 1939/02/27 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 専門学校 |
学歴その他 | 神戸外大 |
入社 | ミクラ・三愛 |
配偶者 | パートナー:グザビエ伯爵 |
主な仕事 | 装苑賞、パリ・立体裁断、ゲイカルチャ-、共同経営者解任、ケンゾー(ブランド)売却 |
恩師・恩人 | 小池千枝 |
人脈 | コシノ姉妹、三宅一生、サンローラン、ラガーフェルド、松本淳子、山口小夜子、ミック・ジャガー、近藤淳子、ボーフュメ、 |
備考 | 待合・浪花楼 |
氏は、この「履歴書」に登場したファッション・デザイナーでは森英恵、ピエール・カルダン、芦田淳に次いで4人目である。今回の「履歴書」では、「ケンゾー」ブランドが彼の手から離れた(株式譲渡)経緯や、パリのデザイナーや芸術家たちの夜の社交界の内幕を教えてくれていた。
夜の社交界を知らずしてパリのモード界は分からない。地上階はレストラン、地下がディスコ。看板も窓もない。入店をチエックする黒服がいて一見客は入れない。服飾関係者のほか芸術家、芸能人らがいつもたむろしていた。ミック・ジャガー、シルビー・バルタン、アンディー・ウォーフォルらもよく出入りしていた。パリのゲイカルチャーの拠点でもあった。ここに仲良しのイブ・サンローランとカール・ラガーフェルドと私のデザイナー3人は一緒によく通っていた。夜の社交界に仲間入りするのはパリで成功するためにはとても重要なこと。シャンパンやワインで華やかに乾杯し、朝まで踊り明かす。ここで人脈が広がり、ビジネスが生まれ、そして恋も芽生える。
創造を続けるデザイナーにはそれを理解し、共感し、励ますパートナーの存在が欠かせない。仕事でも私生活でも互いに寄り添い、固い絆で結ばれた人生の伴侶が必要なのだ。相手は異性のこともあれば、同性のこともある。教養や財力を持ち、人間としても尊敬できる相手でなければとても成立しない。イブにはベルジェ、カールにはジャック、そして私にはグザビエというパートナーがいた。理解しにくい世界かもしれないが、パリでは決して珍しいことではない。それがモードの発信力になっていた。パートナーのグザビエはルイ14世から伯爵の称号をもらった貴族であり、俳優クリント・イーストウッドに似た風貌で、照れると口ひげを触る癖がある。彼は建築学を学んでいて欧州の古城の歴史や構造など熟知していた。また、日本建築にも造詣が深く、桂離宮や龍安寺に込められた思想や様式についても分かりやすく教えてくれた。ごく自然の成り行きでパリで一緒に暮らし始めた。
へぇー、パリの芸術家や社交界をこの「履歴書」で書いている人は多かったが、カルダン、芦田淳、他の画家や音楽家も誰ひとり、ゲイカルチャーをタブー視していたのか書いてくれなかった。自分が同性愛者だったことを告白したのは彼が初めてだ。
氏は‘20年10月4日に81歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は’16年12月の77歳のときでした。この「履歴書」で印象に残った言葉を次に記す。
1.夢追い人77歳、決意新た(成功・破産・買収劇の秘話も)
デザイナーになろうとしたのが18歳。パリでデビューしたのが31歳(1970)。喜びや悲しみもあれば怒りを感じたこともある。そこで人生の節目を迎えた今年、仕事から私生活まで包み隠さず回想してみようと思い立った。なぜ私がパリで成功できたのか? 青春の苦悩、経営者との衝突、そして最愛の恋人との出会い・・・。出店や映画製作で失敗し、ビジネスで破産も経験した。成功もあれば挫折もある。
私は「夢」という言葉が好きだ。何ごとにも縛られず、恐れることもなく、自由を謳歌してきた。今後も「夢追い人」であり続けたい。
2.本場のパリモードに大ショック
パリモードの本丸にも足を踏み入れた。憧れのクリスチャン・ディオールやシャネル、ピエール・カルダンのショーを見学させてもらった。上流階級向けの華麗なオートクチュール(高級注文服)のショーを見終わった我々は完全に打ちのめされていた。「賢三。あの服を見たか。吟味した素材、縫製や裁断の技術、精錬されたスタイル。すごい迫力だったな」 「ホント、僕にはあんな服は絶対に作れない。月とスッポンだよ。デザイナーを辞めた方がいいかもしれない」。日本で少しばかり名が売れていたからと得意になっていた自分が恥ずかしかった。
3.衣服から身体の開放(民族衣装の「着やすさ」がヒント)
1970年代がデザイナーとして最も懐かしい。自分が好きな服だけ作っていた。
・英ビクトリア時代の水着や子どもの制服をヒントにしたマリンルック((71年)
・花柄プリントを重ね着したルーマニアルック(73年)
・中国服に和風角帯を低めに巻いた中国ルック(75年)
・インド首相の衣装から着想したネールルック(78年)
これらは民族衣装の「着易さ」をヒントにしたものだ。まさに時空を漂う旅人である。
共通するテーマは「衣服から身体の開放」。体をきつく締め付けるのではなく、ゆったりしたシルエットの着やすさを重視した服作りを追求した。ウエストまでの袖ぐりが広いT字ライン、着物風のゆとりを大胆に取り入れたビッグなどはその典型である。「四角い平面と直線裁ち」 世界の民族衣装の基本はこの組み合わせにあると私は気づいていた。これは女性らしい体の曲線にぴったり合わせるオートクチュールの全盛期を築いたクリスチャン・ディオールらとは明らかに一線を画する作風だった。
高田 賢三 | |
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生誕 | 1939年2月27日 兵庫県姫路市 |
死没 | 2020年10月4日(81歳没) イル=ド=フランス地域圏 オー=ド=セーヌ県 ヌイイ=シュル=セーヌ市 |
国籍 | 日本 |
教育 | 日本 |
出身校 | 文化服装学院 |
著名な実績 | ファッションデザイン パリコレクション |
代表作 | KENZO HOMME (1983年 - 1993年) KENZO JUNGLE (1986年 - 1993年) KENZO JEANS (1986年 - 1993年) KENZO ENFANT (1987年 - 1993年) K3(2020年) |
受賞 | 第8回装苑賞(1960年) 日本ファッション・エディターズ・クラブ(FEC)賞(1972年、1977年、1999年、2017年) フランス芸術文化勲章シュヴァリエ位(1984年) 毎日ファッション大賞(1985年) 紫綬褒章(1999年) レジオン・ドヌール勲章シュバリエ位(2016年) |
活動期間 | 1960年 - 2020年 |
影響を受けた 芸術家 | 小池千枝 |
高田 賢三(たかだ けんぞう、1939年(昭和14年)2月27日 - 2020年(令和2年)10月4日[1][2])は、日本のファッションデザイナー。ケンゾー創業者で、パリを拠点に活動した。会場を借りてショーを開催した初めてのデザイナーで、今日のパリコレの原型となった。