掲載時肩書 | 芸術院長・学士院会員 |
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掲載期間 | 1967/01/01〜1967/02/07 |
出身地 | 新潟県 |
生年月日 | 1884/05/09 |
掲載回数 | 38 回 |
執筆時年齢 | 83 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | |
入社 | 助手 |
配偶者 | 一生独身で6歳の養女 |
主な仕事 | 欧米留学3年、経済学者、塾長の後任、政治家(吉田内閣)、教育基本法、芸術院長、国立博物館長 |
恩師・恩人 | 福沢諭吉先生68歳 亡 |
人脈 | 堀切善兵衛、槇護、磯村豊太郎、岡本綺堂、池田成彬、小泉信三、中山伊知郎 |
備考 | 新潟廻船 問屋・名門、母15歳、病弱で山登り・水泳、 |
1884年(明治17年)5月9日 – 1982年(昭和57年)2月9日)は、戦前昭和から戦後黎明期にかけての経済学者(専攻は経済原論および経済学史)、教育者、政治家、慶應義塾大学名誉博士。第1次吉田内閣の文部大臣等を歴任し、戦後の文化行政を指導して古典芸能の保護に尽力。経済学者としてはアダム・スミス以前の西欧経済理論、特に重商主義経済学説を研究。日本藝術院院長、帝国学士院会員、日本舞踊協会会長、国立劇場会長、東京国立博物館長を歴任。この「私の履歴書」では、新潟の史話に残る高橋家先祖の没落、いきさつを詳細に書かれていた。一人で38回の執筆は最多である。
1.福沢諭吉先生の最後の演壇
明治31年(1898)9月の三田演説会に「法律と時勢」という演題を掲げて登壇された。先生は少し腰をかがめて、すたすたと演壇に上がり、両手をテーブルについて、ベラベラと喋りだした。骨太のたくましい体格で、身の丈は並外れて高いが、たいして優れた容貌風采の人とも思われなかった。能弁ではあるが、決して雄弁ではなかった。この演説が、先生の最後のものとなった。先生はその後2日目に脳溢血で倒れた。
2.福沢先生の朝の散歩にお供
先生の病気も徐々に回復し、明治32年(1899)10月15日から、ぼつぼつ散歩を始めるようになった。仲秋のさわやかな朝のことである。当時早起きの癖のあった私が井戸端で顔を洗っていると、そこへ身の丈6尺に近いおそろしく大きな老人が、少し前かがみの格好で、つかつかとやってきて、いきなり「お早う、お早う」と声をかけた。大男の老人の後ろには、中年の小男がニコニコしていた。老人は「早起きは結構なことだ」としきりに言っている。私には、しごく横柄な口調で、早起きの利益を説く老人が誰であるか判らなかった。
その翌朝、同じ時刻に顔を洗っていると、また、同じ老人が同じ供をつれて現れ、同じ口調で話しかけるのである。その時、初めて、私はこの老人が福沢先生ではないかと気が付いた。そこで、初めてお辞儀をすると、先生は満足そうに「一緒に歩かないか」と言われる。先生は袂からオコシのような菓子をたった一つ取り出して、食べろと勧める。もらうのを躊躇していると「遠慮することはない。空き腹で歩くのは良くない。少し食べて胃に活動をつけてから歩いた方がいい」と言われる。やがて3人で歩き出した。
先生は歩きながら、絶えずペチャクチャ喋っておられる。実に饒舌多弁だ。私の名前を聞く、郷里はどこかと聞く、親のことを聞く、学校の話をする、いろいろな説法が始まる。1時間ほど歩き続け、喋り続けて、福沢家の玄関の前で別れ、私は寄宿舎へ帰った。その後、散歩仲間の数は次第に増えた。私のような少年も数名いたが、大学生の他に学校の先輩も4,5人いた。そして、福沢家の若い人たち、三男の三八君、四男の大四郎君、最年長のお孫さん中村愛作君なども親しい友達となり、福沢家に遊びに行くようになった。
3.一日で文部大臣と大学講師の使い分け
昭和22年(1947)1月31日、吉田茂内閣の文部大臣に就任した。この年4月25日、第23回衆議院議員総選挙が行われ、自由党は第一党たる地位を社会党に譲った。私はとくに辞表を吉田総理に提出しているが、まだ新内閣が成立していないので、その職にとどまっていた。
5月25日には母校慶應義塾創立90周年の式典が挙げられようとしている。この式典には文部大臣として式壇に立って祝辞を述べるのか、それとも一塾員、一名誉教授として式場に参列するのか、私には見当がつかない。総辞職が寸前に迫っている瀕死の内閣は果たしてこの日まで寿命が保つだろうか。22日の閣議の後でこの事を切り出すと、幣原国務大臣は、やや剽軽な口調で、「それでは、高橋文部大臣のために、明日の三党首会談でゴテルカ」と言って、並み居る閣僚たちを笑わせた。
25日の当日は、午前の式典に大臣として式辞を述べ、午後一時からは講師としてかねてから約束のあった記念講演を行った。身辺多事、どちらも不用意至極、お粗末千万のものである。
高橋 誠一郎 たかはし せいいちろう | |
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肖像写真 | |
生年月日 | 1884年(明治17年)5月9日 |
出生地 | 神奈川県横浜市 |
没年月日 | 1982年2月9日(97歳没) |
出身校 | 慶應義塾大学部政治科 |
前職 | 慶應義塾長 |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 従二位 勲一等瑞宝章 勲一等旭日大綬章 文化勲章 |
第62代 文部大臣 | |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1947年1月31日 - 1947年5月24日 |
高橋 誠一郎(たかはし せいいちろう、1884年(明治17年)5月9日 - 1982年(昭和57年)2月9日[1])は、戦前昭和から戦後黎明期にかけての経済学者(専攻は経済原論および経済学史)、教育者、政治家、慶應義塾大学名誉博士。日本藝術院院長、帝国学士院会員、日本舞踊協会会長、国立劇場会長、東京国立博物館長、第1次吉田内閣の文部大臣等を歴任し、戦後の文化行政を指導して古典芸能の保護に尽力。経済学者としてはアダム・スミス以前の西欧経済理論、特に重商主義経済学説を研究。