高柳健次郎 たかやなぎ けんじろう

電機

掲載時肩書日本ビクター顧問
掲載期間1982/02/03〜1982/03/04
出身地静岡県
生年月日1899/01/20
掲載回数29 回
執筆時年齢83 歳
最終学歴
東京工業大学
学歴その他静岡師範学校
入社神奈川県立工業
配偶者浜松高工娘
主な仕事東京外大、浜松高工、ラジオ、テレビ、欧米視察、NHK,日本ビクター、VTR
恩師・恩人渡瀬晴吉、中島友松、関口壮吉
人脈高松宮夫妻、ツボルキン博士、鮎川義介、小森七郎、坂本朝一、名和武、早川徳次
備考金原明善(祖父の師)孫・徳次(恩顧)
論評

1899年〈明治32年〉1月20日 – 1990年〈平成2年〉7月23日)は静岡県生まれ。工学者、日本ビクター元副社長・技術最高顧問。静岡大学名誉教授。日本のテレビの父と呼ばれる。大正天皇が崩御した1926年12月25日、高柳はブラウン管による電送・受像に世界で初めて成功した。送像側にニプコー円板を、受像側にブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。走査線の数は40本だった。「イ」の文字はいろは順の最初の文字として選んだ。1937年、NHKに出向し東京オリンピックのテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究を本格的に開始。しかし1938年に日中戦争が激化するなどで東京オリンピックは中止、テレビの研究も中断させられレーダーや奮龍の誘導装置などの研究をすることになる。

1.金原明善翁
明善翁は天竜川の治水事業に一生をささげた。水利学校を設立して、今でいう測量術や土木工学を普及させたし、勧善社という団体を作って出獄人の保護事業なども手掛けられた。翁は常日頃、勤勉貯蓄、倹約を主張され、それを実践した厳しい人だった。翁はいつも10人ぐらいの書生を傍に於いて厳しく教育していたが、書生が仕事についての報告をする時の光景が、見ていて面白かった。翁はいきなり「お前、しりを拭いてきたか、しりを見せろ」と報告を終えた書生に言うのである。人間というものは仕事の結末をきちんとしなければいけない、ということを諭したわけだが、書生たちは大恐慌を来していた。私は子供なので本当に尻をまくられてしまうのではないかと、面白がりながらも随分、心配したものだ。
 私が小学校5,6年の時には、翁はもう80歳を超えていたが、毎朝、冷水浴と乾布摩擦を欠かさず、いつも素足で袴を着け、かくしゃくとしていた。その翁も大正12年(1923)、91歳で亡くなられた。

2.ブラウン管に「イ」の字が映った(実験成功)
大正13年(1924)に私はブラウン管でのテレビ実験を、撮像管と受像管の送受信双方の考案でおこなった。この実験をするにはどうしても真空管が要る。当時、国産ではいい真空管がなく米国製を買うのだが、一本10円も20円もした。私の月給が80円ぐらいの時である。私は家内に頼み込み、持参金の200円を出してもらうことにした。抵抗やコンデンサーなどは自作である。こうしてやっと大正15年の春からやっと実験に取り掛かることができた。最初から人間の顔を送るのはとても無理だから、雲母板の上の「イ」の字を送ることから始めたのである。しかし、受像機の像がうまく画にならない、半年余りも失敗の連続だった。
 大正15年(1926)12月25日、授業を終えた後、いつものように助手と二人で実験を繰り返したあげく、「雲母板」の「イ」の字が見事、ブラウン管上に映ったのである。とうとう成功したのだ。送受双方を機械式でやるテレビの実験には、欧米の先人たちが既に成功しているが、電子式での実験成功は例がない。私が世界で初めて電子式のテレビ技術を確立したと言われるのは、この時のことを指しているのである。

3.後進への指導(自発的な研究を尊重)
第一線の若い研究者たちの自発的な意思で研究を進めた方が効果が上がると私は考えている。だから、若い研究員から「それはどうかな」と思われる提案があっても、頭ごなしに「それは私がやってみた時はダメだった。もっと他の方法を考えなさい」と𠮟るようなことはしなかった。「それは結構だ。しかし、私はこういう経験をした。それを乗り越えて君のいい考えが実現するように努力しよう」と言って、自分で実験してダメだと知ったうえで、前に進ませるように指導した。
 上のものだけが研究者のようなつもりで担当者を道具みたいに使うのでは、いい研究ができるわけがない。これは研究組織に限ったことではないだろう。担当者自身がどこに問題があるかを知って、それを自分の責任で解決していくという体制が必要なのである。それと自分の研究成果を、個人の範囲にとどめておいて他人に知らせない態度も良くない。これでは全体のレベルは上がらないし、第一その人自身が損をする。

高柳 健次郎
1953年
生誕 (1899-01-20) 1899年1月20日
静岡県浜名郡和田村
死没 (1990-07-23) 1990年7月23日(91歳没)
国籍 日本の旗 日本
別名 日本のテレビの父
教育 東京高等工業学校附設工業教員養成所
子供 高柳 俊
父:高柳 太作
母:高柳 みつ
業績
専門分野 物理学
勤務先 日本ビクター
設計 テレビ伝送
成果 電子式テレビ受像機の開発
受賞歴 勲一等瑞宝章
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テレビ伝送実験装置の再現展示(NHK放送博物館)

高柳 健次郎(たかやなぎ けんじろう、1899年明治32年)1月20日 - 1990年平成2年)7月23日)は、日本工学者日本ビクター元副社長・技術最高顧問。静岡大学名誉教授日本のテレビの父と呼ばれる。文化勲章受章。

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