掲載時肩書 | 横浜みなとみらい21社長 |
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掲載期間 | 1994/03/01〜1994/03/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1919/04/06 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 浦和高 |
入社 | 大蔵 |
配偶者 | 大蔵アル バイト譲(日本女子大) |
主な仕事 | 海軍法務官、秘書(池田総理)、大阪国税長、山口組納税、次官、国鉄総裁、年金統合(公務員、電電、専売、国鉄)みなと未来21 |
恩師・恩人 | 茅誠司、池田勇人 |
人脈 | 矢口洪一(海軍)、橋口収(同期)、長沼弘毅(ホームズ通)、江田三郎、伊東正義、細見卓、大平正芳(次官)、竹内道雄 |
備考 | 慶応幼稚舎出身、叔父・慶応大教授 |
1919年(大正8年)4月6日 – 2006年(平成18年)2月14日)は東京生まれ。大蔵官僚。大蔵事務次官としては、主計局長を務めずに主税局長から昇格した。田中角栄の後ろ盾により、同じく福田赳夫の後ろ盾にあった時の主計局長で同期の橋口收との次官争いは、角福戦争の代理戦争ともいわれた。国鉄総裁には、スト権ストの責任を問われ辞任した藤井松太郎の後任として、国鉄が赤字に苦しむ中、1976年3月に第8代総裁に就任し、人員削減などに辣腕を振るった。国鉄外部出身者の総裁は第5代石田禮助以来であった。
1.池田勇人首相の秘書官として
昭和38年(1963)7月に大蔵本省の秘書課長に転じ、3年間勤めた。当時の総理大臣は池田勇人氏、大蔵大臣は田中角栄氏、事務次官は石野信一氏である。池田さんは総理就任後、2つの誓いを立てていた。一つは料亭に行かないこと。もう一つはゴルフをしないことだった。もともと酒豪でよく飲まれていたが、誓いの手前、行くわけにはいかない。会合に出ても早々に帰って無聊(ぶりょう)に悩んでいた。それをお守りするのも私の役目だと、前任の近藤道生(博報堂社長)さんから申し継いだ。夜、よくお呼びがかかった。
池田邸は信濃町にあり質素だった。夜回りの記者が引き揚げると、池田さんは台所から大好物のモーゼル葡萄酒を取り出した。夫人は「池田は勿体ないが口癖で、栓を開けると飲み干してしまう。健康に良くないから時々来て助けて欲しい」と言われて、お呼び出しがかかったのだ。後輩を相手に好んで人生観などを語っていた。当時大蔵省は「一中、一高、東大にあらずんば人にあらず」と世間に言っていた。彼は五高-京大出。たまたまパージがあり、「戦中あまり重要ポストにいなかったおかげで次官になれた」としょっちゅう言っておられた。私も慶応―浦和高校出なので「君もエリートコースではないね」と親しまれた。
2.人事課長の仕事(新規採用は人物本位に)
昭和40年(1965)、人事課長の私は新規採用や研修などが仕事の中心だった。主要な省内人事は、事務次官、官房長中心で決める習わしである。私はキャリア(上級職)の選考が将来の役所の活力を左右すると考えてかなり力を入れた。他省庁とも争奪合戦をした。東大法学部は余り多く採用したくない。理工系や地方に生まれ育った人材、海外留学経験者が欲しい。成績よりも人物本位とした。初めて女性も採用した。
採用の次に大切なのは研修だ。10日前後の新人研修を始めた。同じ釜の飯を食うことはいいことだ。座禅をカリキュラムに入れた。海外研修制度も出来た。これは大蔵省だけでなく、全省庁のグリーンボーイの中から数人を選び、原則2年間、英、独、仏の大学に留学させることにした。
3.国鉄改革
昭和51年(1976)3月5日、国鉄総裁に就任した。東京駅前の国鉄本社にある記者クラブ「ときわクラブ」での記者会見が初仕事だ。その後週刊誌のインタビューで、面白い記事を作るため誘導質問をされる。その際、「駅構内でパチンコ屋をやってみたらどうかね」と言ったのが話題になってしまった。決して全くの放言のつもりではなかった。
私は国鉄の赤字を埋めるためには、レール以外の仕事も積極的に手掛け、地の利を生かした関連事業を展開してはどうかと考えていた。多角化経営は自論である。大阪。梅田を皮切りにステーションビルをあちこちに展開した。「民業圧迫だ」と批判をうけたこともあったが、「皆さんの方が官業圧迫だ」と突っぱねた。
新幹線の車内に大型パネル広告をだした。神戸ポートピア博覧会入場券と新幹線切符のセット販売、フルムーンの割引旅行、山口線でのSL走行などの企画も皆で考えた。チョッとした工夫でも、少しずつ経営に貢献できる。運転士はただ安全に運転するだけではだめだ。施設係は保線に専心するだけではだめだ、という風潮を広げていくのに気を配った。今日のJRに引き継がれたと考えている。