掲載時肩書 | 囲碁九段・本因坊 |
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掲載期間 | 1961/05/27〜1961/06/15 |
出身地 | 和歌山県 |
生年月日 | 1915/09/21 |
掲載回数 | 20 回 |
執筆時年齢 | 46 歳 |
最終学歴 | 高等学校 |
学歴その他 | 高津中 |
入社 | 小4棋院生 |
配偶者 | 見合い |
主な仕事 | 本因坊秀哉と小4対局、橋本本因坊が日本棋院を脱退、本因坊初挑戦で春、秋王座に |
恩師・恩人 | 光原伊太 郎 |
人脈 | 森島小学校先生、増淵辰子、藤沢朋斎、橋本宇太郎、木谷實、呉清源 |
備考 | 藤沢(独特・疲れる) |
1915年9月21日 – 1986年11月26日)は和歌山県生まれ。日本の囲碁棋士。本因坊戦9連覇の功績により名誉本因坊として高川秀格(たかがわ しゅうかく)と号し、後に二十二世本因坊を贈られる。光原伊太郎名誉八段門下。本因坊位の他にも、名人、十段等タイトル多数の、昭和を代表する名棋士の一人。「流水不争先」を信条とし、平明流とも言われる、合理的で大局観に明るい棋風。
1.師匠の指導法
碁の師弟は、先生が直接弟子を相手に打って教えることはない。私が光原伊太郎先生に打っていただいたのは入門のときの1局、その後だいぶたってから5目と3目、初段前後に2目で2局、計5局である。この5局は多い方だ。何人か弟子はいたが、ほとんど1局か2局である。つまり、自分で研究しろ、という建前だった。碁に限らず、勝負ごとの師弟関係は、どんなものでも同じ主義に立つものと思う。だから、努力しないものは脱落する。
2.終戦直後の生活
徴兵検査では体格が最下等の丙種合格だった。3度の召集があったが、非力なため衛生兵など体力をあまり使わない雑役をやらされた。戦後、郷里の和歌山・田辺の畑仕事を手伝ったりしたが、クワを持ったり、コエ桶を担いだりの野良仕事をしたが長続きはしなかった。そこで和歌山のヤミ市へ出て商売をしようと考えた。もとでは衣類を売ってこしらえた。まず漁師の田辺に行ってスルメを仕入れ、リュックに詰めこんで和歌山のヤミ市で売る。“スルメ、スルメの大安売り!”と声を張り上げる勇気はない。買い手がいないのでオロオロしているうち、子供が一人よってきて“おっさん、イカ一枚わけてんか”と言ってくれた。これでやっと客はついたようである。10枚一束だから一枚では困るのだが、相手は子供だから仕方なかった。サバを売っても、靴下を売っても結局私に商売はダメだった。
3.対局中の癖
碁打ちにはいろいろな棋風がある。12期のとき、私は藤沢朋斎さんの挑戦を受けたが、くたびれると言ったらこれくらいくたびれる碁はほかにない。藤沢さんの碁は独特なもので、勝っていても負けていてもぎりぎりいっぱいやってくる。たえず勝負手に出て、難しく難しくやってくるので、ほかの人と打つ倍以上に疲れてしまう。
私は日に一回は必ず散歩することにしている。散歩しないと気が晴れない。木谷さん、呉さん、杉内さんなどは対局中は旅館から一歩も外に出ないが、私は戦力を養う意味からも、必ず外を歩き回る。碁を打つと頭だけ使って、体の動きは止まってしまうからだ。木谷さんと湯河原の中西旅館で対局した時の話である。立会人の村島さんが勝負の予想をたててこういった。「今夜天気が良かったら高川の勝ち、雨が降れば高川の負け」。つまり、散歩できるかできないかが勝負であると。その日は夕方からかなりの雨が降っていた。だから村島さんの予想では私が負けるはずだった。ところが、夜半雨が止んだ。誰も知らなかった。私は間髪を入れず奥湯河原を歩き回った。翌日の碁は私が勝った。村島さんの予想はズバリ的中したのだが、表面は見事外れたことになる。
私(吉田)には、あはは・・で、面白く楽しいエピソードでした。