掲載時肩書 | 鋳金家 |
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掲載期間 | 1987/02/01〜1987/02/28 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1899/01/15 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 88 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | |
入社 | 父の弟子 |
配偶者 | 継母の 縁者 |
主な仕事 | 絵画、鋳物、父と梵鐘、七日会、南極の壺、成田山鐘、原爆記念鐘、 |
恩師・恩人 | 板谷波山、正木直彦校長 |
人脈 | 中村不折、高村光太郎・千恵子、芥川竜之介、寒川鼡骨、御巫清允(娘の義弟) |
備考 | 父・芸大教授、正岡子規門下 |
1899年 1月15日- 1988年11月19日)は東京生まれ。鋳金工芸作家。1977年(昭和52年)に梵鐘の分野で重要無形文化財保持者(「人間国宝」)に認定された。製作にあたっては、古典研究を基礎とした。終戦後は戦争中に供出された仏具・仏像などの文化財修理・保護に尽力。1949年(昭和24年)から梵鐘制作を始め、比叡山延暦寺、成田山新勝寺、広島平和の鐘(1967年)を手がける。
1.制作時の心境
鐘づくりで最も緊張するのは、何といっても鋳込み、すなわち溶かした地金を鋳型に注ぎ込む、その一瞬である。何百貫の鐘でもわずか2分足らずの間でしかないが、私には長い時間に思える。おのずから神仏に祈るようなこの瞬間、私は温かく私を見守ってくださる多くの人々の心と、たえず私の心の支えとなってくれる妻の心とをしみじみと感じる。いってみれば私の鐘は「和」と「信心」のたまものといえよう。
鋳込みが終わって一昼夜さまし、外型の鉄枠をはずすと型の土の中から鐘が姿を見せ始める。うれしくて胸が熱くなる。生まれたばかりの我が子を初めて目にする親の心にも似ている。まずは「産声」をと、まだ熱い鐘に撞木(しゅもく)をしずかにひとつき。「ゴォーン」と響く音色にようやくホッとする。こんな思いを150余の鐘をつくるたびに味わってきた。
2.愉快な集い「道潅会」
戦災で焼け出された昭和22年(1947)まで、父と私は東京・田端に住んだ。田端にあった道灌山に因んで「道潅会」と名付けた。中心となったのが鹿島竜蔵さんであった。鹿島さんは鹿島組の創始者・岩吉さんの孫にあたる人で、書、音楽、テニス、スケートなど多趣味な長老だった。
各自持ち寄りで飲み食いし、おしゃべりを楽しむ集いだった。会員は鹿島さん、父のほか小杉放菴、芥川竜之介、室生犀星、森田恒友などの文人、美術家に加えて美術評論家の北原大輔、脇本楽之軒さんなども常連だった。あるときはたまたま父の家が会場になった。夕方6時過ぎから始まった会が、丸一日たった翌日の夕方6時になってもまだお開きにならなかった。
3.広島原爆記念の鐘
これまでに150を超える鐘を鋳てきた。その一つ一つに、わが子に対するような思い入れがある。毎年8月6日午前8時15分に打ち鳴らす広島原爆記念式典の鐘は、昭和42年(1967)につくった。それまでの鐘の音が良くないことが気になり、「広島から世界の空へ届くにふさわしい音色の鐘」と小さいものながらも心を込めてつくり、寄進した。
竜頭はハト、上部に、日、月、星、雲などの文様で宇宙を表し、中央部に吉田茂元首相の揮毫(きごう)になる「平和」の文字を浮き彫りにした。一年に一分間しか鳴らされない鐘だが、毎年たくましく成長した若人が、この鐘を打ち鳴らす姿をテレビで見ていると目頭が熱くなる。
私がようやく広島へ念願のこの鐘を贈る決心をした時、正面に入れる「平和」の文字は是非吉田さんに書いてもらいたいと、外務参事官で娘婿の御巫(みかなぎ)清尚を通じてお願いした。吉田さんは病気がちのため一切書は書かれなかったのに、特にお書きくださった。