掲載時肩書 | セコム創業者 |
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掲載期間 | 2001/06/01〜2001/06/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1933/04/01 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 学習院大学 |
学歴その他 | 湘南高 |
入社 | 家業・岡永商店 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 警備事業、前金制、東京五輪、ザ・ガードマン、SPアラーム、セコム、海外進出、在宅医療、損害保険 |
恩師・恩人 | 添田徳穂 |
人脈 | 石原慎太郎、江藤淳(高校)、戸田寿一(共同創業)、長嶋茂雄、宇津井健、五島昇、稲盛和夫、牛尾治朗、石川六郎、坂野常和 |
備考 | ヨット、アメフト部 |
1933年4月1日 – )は東京生まれ。実業家、セコム創業者。1997年、取締役最高顧問となり、以降は各種団体の代表役員などを務めるようになって、1998年から人道目的の地雷除去支援の会(JAHDS)理事長、日本卓球協会会長となったほか、2002年からは全国警備業協会顧問、日本経済団体連合会常任理事、特殊法人等改革推進本部参与会議座長なども務めた。長兄飯田博は岡永会長、次兄飯田保はテンアライド創業者、三兄飯田勧はオーケー創業者、叔父には飯田耕作 (英語学者)(神奈川大学学長英語教授)。セコム代表取締役社長の尾関一郎は娘婿。
1.警備実施は前金制で
昭和37年(1962)7月7日、資本金400万円で「日本警備保障」が誕生する。最初の本社は港区芝公園にタダで借りた。私が代表取締役、戸田寿一氏が常務である。顧客企業との契約方法について、最初に考えたのが前金制にすることだった。家業の岡永商店時代の掛け売りで、「貸し倒れ王」の異名をとった苦い経験があるからだ。しかし、無謀だった。日本では掛け売りや手形決済が商慣習として定着している。何の実績もない29歳の男が前払いを要求するのは無理があった。それでも、既成概念への反発心が強く、契約時に3か月分の前金をもらうことに決めてしまった。
警備保障の意義をある程度は理解してくれても、前金制で行き詰まる。「どこの馬の骨だか分からない若造に前金など払えるものか。お前たちが夜逃げしたらどうするんだ」とも言われた。「後払いならいい」とか「試しに1か月無料でやってみろ」などと妥協を迫られることも多かった。
捨てる神あれば拾う神あり。設立から3か月後の1962年10月、麹町にあった旅行会社が遂に契約に応じてくれた。常駐警備ではなく、当社の社員が一晩に4回見回りをする巡回警備だ。料金は2万4千円強だった。戸田氏と二人で「警務士」の制服を仕立てて、契約に赴いた。うれしさをかみしめながら、契約先の事務所がある銀座へ歩いていくと、道行く人が振り返る。不思議な制服を着ているから恥ずかしかった。
2.テレビドラマのモデル「ザ・ガードマン」として
1964年(昭和39)の東京オリンピックの警備を請け負った。これが無事に終わったので、マスコミを通じて知名度や信頼度が一気に上がった。閉幕直後に、帝国ホテルや有楽町のそごうなどブランドイメージの高い大企業と契約を結ぶ。12月末の社員数は162人に膨らんでいた。
このころ大映映画のテレビ室プロデューサーだった野添和子さんと小森忠氏が当社を訪ねて来た。テレビドラマのモデルとして協力して欲しいという。最初のタイトル案は「東京用心棒」だったので断ると、TBSが会議を繰り返した末、出てきたタイトルが「ザ・ガードマン」だった。海外ロケを含め、全面協力となった。
「ザ・ガードマンとは、警備と保障を業務とし、大都会に渦巻く犯罪に敢然と立ち向かう勇敢な男たちの物語である・・」。65年4月9日、このナレーションと共に放映が始まる。宇津井健氏演じる高倉キャップをはじめ、7人のガードマンはたちまち視聴者の心をとらえていく。
モデルの当社は、まだ創業3年足らず、企画を担当した野添さんにとってもデビュー作だった。それが放映回数350回というお化け番組となる。ビデオリサーチによると、関東地区の年間最高視聴率は67年に40%を突破。68年からの4年間も37~39%台に達した。
3.SPアラームシステムへの転換
いつまでも人手に頼った警備でいいのだろうか。契約が増えれば、それに比例して社員を増やさなければならない。事業の将来性を考えると、いずれ社員数は10万人、20万人になる。楽観的に夢想しつつ、そうなったら管理しきれないという危惧を抱いた。考えてみれば、異常が発生していない時まで人間が見張っている必要はない。異常発生時のみ駆け付ければいい。感知器(センサー)と通信回路を利用した遠隔監視の機械警備システムを思いついたのは、1964年(昭和39)のことだ。
契約の第一号は66年6月、三菱銀行(現東京三菱銀行)の東池袋支店と交わした。しかし、その後は不振を極める。66年末の契約数はわずか13件。従来の巡回警備は341件に達しており、転換どころではなかった。
しかし1970年(昭和45)、遂に大転換を決意する。箱根宮の下の富士屋ホテルで支社長会議を開き、約30人の幹部を前に宣言した。「機械でやれることに人手を割くのは、人間の尊厳を損なうものだ。従って巡回警備は廃止する。常駐警備も増やさず、大幅に値上げする。今後の営業はSPアラーム一本でいく」。幹部たちの顔が一様に青ざめた。無理もない。巡回警備の契約件数は前年末に2千件を超え、ピークに達していた。一方、機械警備は500件に過ぎない。事前に議論はしていないので青天の霹靂だったろう。ドラマ「ザ・ガードマン」で社員が仕事に誇りを持ってくれたので、会社の将来を考え、熟慮の末に退路を断つ決心をしたのである。
翌日以降、各地域の責任者は困難に立ち向かっていく。顧客企業に対し、一方的に機械警備への契約変更や値上げを迫るのだから大変だ。怒って解約する企業も多かった。しかし、既存の契約先全体でみると、3割が解約したが、7割は乗り換えてくれた。新規の契約も伸びたから、転換は成功した。翌71年末、機械警備の契約件数は5116件と前年の3・7倍に急増。逆に巡回警備は26%減となり、以後も漸次縮小していった。
氏は’23年1月7日、89歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は‘01年6月の68歳のときでした。既に前段で紹介していますが、この警備保障会社をテレビドラマのモデルとして協力して欲しいと頼まれたとき、最初のタイトル案は「東京用心棒」だったので断った、とありますが、「東京用心棒」に思わず笑ってしまったのでした。
1,趣味(トローリング)
また、氏は湘南育ちだから、夏が近づくと海が恋しくてウズウズする。最大のイベントは巨大なカジキマグロとの戦いである。釣りの師匠は東急グループの五島昇氏だった。77年ごろだったか、ゴルフでご一緒した時に「マコ、おまえ海が好きなら、船を買えよ」と誘ってくださった。そこで釣り用の船をあつらえ、伊豆・弓ヶ浜にあった五島邸の隣に小さな別荘を建てた、という。
釣り仲間が集まると、五島氏は決まってカケをやろうと言い出す。85年に五島氏、日産自動車の石原俊氏、鹿島の石川六郎氏と4人で集まった時には、「釣れなかった者が宴席代を持ち、みんなの前で頭を下げることにしよう」と提案された。
その日釣果なく、約束通りに罰を受けたのが私である。東京・新橋の宴会場に着くと、床の間にはカツオを描いた掛け軸があり、芸者連中が大漁節を歌い出す。すべて私をからかおうという五島氏の演出だった。
しかし、95年8月には重さ190kgのカジキマグロを釣り上げこれまでの最高記録を達成しているが、氏は学習院の先輩だった五島氏に可愛がってもらったと感謝の言葉も書いている。
2.苦難時代(日経記者:塩田宏之氏追悼)
66年、警備先の百貨店で社員が宝石を盗んで逮捕された。1カ月余りで5、6件の窃盗事件が起き、おわび行脚の日々が続く。顧客企業の総務担当者から本を顔に投げつけられ、屈辱感で涙を流したこともあった。
「社員に魔が差したとき、上司の顔が思い浮かべば踏みとどまったはずだ。上司の上司とたどっていくと最後は社長だから、責任は俺にある」
こう考えた飯田氏は研修後にビールを飲みながら社員と語り合う機会を設けた。心の中で「勤務中に魔が差したら俺の顔を思い出してくれ」と願い、1000人前後いた全社員と話し合った。
当時を振り返り「心の中の顔は傷だらけだよ」と語ったこともある。だが他人に見せるのは、いつも人懐っこい笑顔。そんな美学をもった粋な人だった。
いま、約60年後の2021年、警備業は売上高3兆円超、警備員59万人の産業になった。(塩田宏之)