青木昌彦 あおき まさひこ

学術

掲載時肩書スタンフォード大学名誉教授
掲載期間2007/10/01〜2007/10/31
出身地愛知県
生年月日1938/04/01
掲載回数30 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他小山台
入社大学院助手
配偶者民藝女優、再婚(チェロ奏者)
主な仕事学生共産活動(留置)、マルクス経済学→数理経済学、stanford・京都大教授、「比較制度分析」で国際賞、経済産業研究所
恩師・恩人ハーヴィッツ、アロー教授
人脈唐牛健太郎、平尾昌晃、公文俊平、香山健一、浜田宏一、吉富勝、宇沢弘文、中谷巌、西部邁、ライス国務長官、周小川、野中郁次郎
備考全学連の創立メンバー
論評

1938年〈昭和13年〉4月1日 – 2015年〈平成27年〉7月15日)は愛知県生まれ。経済学者。専門は比較制度分析。1964年に東京大学大学院経済学研究科修士課程を修了すると渡米しミネソタ大学に留学。ジョン・チップマン教授の指導を受け、 1967年に同大博士課程修了(Ph.D.)。その後、スタンフォード大学助教授(1967年)、 ハーバード大学助教授(1968年)、京都大学助教授(1969-1977年)、同教授(1977-1984年)を経て、1984年にはスタンフォード大学教授に就任した。スタンフォード大学名誉教授、京都大学名誉教授、中国人民大学名誉客員教授、東京財団特別上席研究員、VCASI(東京財団仮想制度研究所)主宰。

1.平尾昌晃とケンカ
1950年、湘南学園に我々は3期生として進学した。2年のとき隣に座っていたのが平尾昌晃。授業前に教壇を高座代わりの、「えー、お笑いを一席」に、教室中が笑い転げたものだ。中学時代からボランティア精神が旺盛で、お年寄りの施設に落語を講じにいったり、音痴の私を助けるため音楽の試験で一緒に歌ってくれたりした。
 ある時、授業中に平尾と言い争いになり、2,3発平手の応酬となり、私が引き下がったが、昼食時に牛乳を1本買ってきて、何も言わずにくれた。彼がミッキー・カーチス、山下敬二郎と組んで「ロカビリー旋風」を巻き起こしたのはそれから7年後、私も学生運動に没入したころだ。

2.学生運動を主導
1960年1月、東京・秋葉原の万世橋警察署内。崖下には神田川が流れていて、厳しい寒気が立ち上がってくる。私が放り込まれた留置部屋の牢主は、看守も一目置く筋金入りの倉庫破りの常習犯で、取り調べは優男風の思想犯担当(警視庁公安二課)ではなく、屈強な労働運動担当(公安一課)の刑事だった。だが、私の逮捕の事情を知った牢主は、どういうわけかいたく感激し、留置部屋の上席を譲ってくれようとした。看守も、私が東京大学の学生だと知ると、「息子を東大に入れるにはどうしたらいい?」と相談する始末だ。
 私が逮捕されたのは、羽田空港内で多くの学生らと一緒にバリケードを築き、岸信介首相の訪米を阻止しようとしたからだ。訪米目的は日米安全保障条約の調印で、安保条約は日本史上で空前の規模で行われることになる学生運動の焦点だった。その学生運動の中核組織は、全国の大学の学生自治会で構成される「全学連」。その全学連を主導していたのは、できたばかりの「共産主義同盟(通称ブント)」だった。私はその全学連の情報宣伝部長であり、ブント創立メンバーの一人でもあった。

3.宇沢弘文ゼミに招かれる
東大大学院でかなりの勉強はして行ったので、ミネソタ大学大学院の1年目で課程科目は全部とれた。だから1965年の夏休みは開放的な気分で迎えたが、思いかけず良いことがあった。シカゴ大学の宇沢弘文教授がマサチューセッツ工科大学(MIT)の優秀な大学院生を幾人か集めてワークショップを開くのに、私を加えてくれたからだ。
 昼間は誰かが順番に博士論文のアイディアを発表し、それを皆で議論した後、夕方になるとビアホールに繰り出す。ジョセフ・スティグリッツとジョージ・アロカスが仲間にいた。彼らはまだ20代前半だったが、後にノーベル賞受賞理由となった「情報の非対称性」の理論のアイディアを既に議論していた。宇沢夫人が帰国中だったので、教授のアパートの台所で一緒に「実験だ」と言って天ぷらを作り、皆にご馳走した。スティグリッツは今でも「あの天ぷらは旨かった」と言ってくれる。

4.比較制度分析で受賞
比較制度分析の執筆に本格的に取り組み始めたのは1990年後半である。この年、スタンフォード経済学部は大学院に比較制度分析(頭文字をとって通称CIA)の博士論文のフィールドを立ち上げた。私にとって第4の「知的」ベンチャーだ。市場経済にも企業組織や法的規制、社会規範によって多様な制度がある。また政治学が扱っていた国家(国のかたち)も多様だ。それらの制度の相互関係を、ゲーム理論を言語として用いながら、理解しようというのがCIAだ。ソ連圏の崩壊が歴史的背景にあるが、個人史的に言えば、70年代末に未解決だった社会科学統合問題に道筋をつけようということだった。
 完成に5年を要し、2001年に英、中、日で同時に出版した(後に仏訳)。その草稿により、98年にはウィーンのシェーンブルグ宮殿で、国際シュンペーター賞を受けた。

追悼

氏は’15年15日、77歳で亡くなった。2007年10月の「履歴書」に登場した。日本を代表する世界的な経済学者で宇沢弘文氏と並び、ノーベル経済学賞の有力候補者になっていた。湘南学園時代は歌手で作曲家の平尾昌晃と同級で、学芸会で共演もした仲と書いている。氏は、東大の在籍中、学生運動を主導する「共産主義同盟」の創立メンバーとなり、既存の政治思想を批判する論文を量産した。

同時代に、学生運動では羽田空港で籠城し逮捕され留置された経歴も持つ。しかし、共産主義運動やマルクス主義に疑問を持ち、安保闘争の終了後、大学院にマルクス主義の対極にあった近代経済学を学ぶ。そこで「資源の再配分」は分権的な市場で達成できるとするケネス・アローとレオニード・ハーヴィッツ(後に共にノーベル経済学賞を受賞)の論文に衝撃を受けた。

氏は後に経営者が、株主と従業員の双方のバランスをとって企業を経営するというゲーム理論の斬新なモデルを作った。研究の集大成は、90年代以降に取り組んだ「比較制度分析」である。これは、法律や慣習、仲間の信頼など、人々の意識の中で共有され、行動に影響を及ぼす要素を「制度」と定義した。そして、国ごとに異なる制度の影響をゲーム理論に採り入れると、各国(日本と米国など)の経済や政治の違いを説明できることを示した。この論文が大評価され国際シュンペーター協会のシュンペーター賞となった。

東大を卒業後、米ミネソタ大の大学院を経て、スタンフォード大、京都大で教授を歴任した。晩年は、終身雇用などを前提とする「日本型組織」が時代の変化に対応できていないとの問題意識を持ち、中国との比較分析の成果を生かしながら、日本の針路も探った。中国の経済改革では、中国が金融財政制度や会社法の本格的な改革に乗り出すとき、招かれ当時の若手ブレーン周小川(現中国人民銀行総裁)や楼継緯(中国為替投資ファンド会長)にも影響を与えた。

青木 昌彦
新制度派経済学
生誕 (1938-04-01) 1938年4月1日
愛知県名古屋市
死没 (2015-07-15) 2015年7月15日(77歳没)
カリフォルニア州
国籍 日本の旗 日本
研究機関 スタンフォード大学
ハーバード大学
京都大学
研究分野 ミクロ経済学比較制度分析
母校 東京大学 B.A. 1962
東京大学 M.A. 1964
ミネソタ大学ツインシティー校 Ph.D. 1967
影響を
受けた人物
ジョン・チップマン
レオニード・ハーヴィッツ
影響を
与えた人物
コルナイ・ヤーノシュ
ポール・ミルグロム
アブナー・グライフ
岡崎哲二
浅沼萬里
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青木 昌彦(あおき まさひこ、1938年昭和13年〉4月1日 - 2015年平成27年〉7月15日)は、日本の経済学者。専門は比較制度分析スタンフォード大学名誉教授京都大学名誉教授、中国人民大学名誉客員教授、東京財団特別上席研究員、VCASI(東京財団仮想制度研究所)主宰。

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