長谷川如是閑 はせがわ にょぜかん

ジャーナリスト

掲載時肩書日本芸術院会員
掲載期間1963/01/01〜1963/01/31
出身地東京都
生年月日1875/11/30
掲載回数31 回
執筆時年齢88 歳
最終学歴
中央大学
学歴その他明治法科予科
入社「日本」のち、大阪朝日新聞
配偶者記載なし
主な仕事孔子(儒教)老子(道教)雑誌「我等」 「日本と日本人」、日本の風習、教育、思想の流れ
恩師・恩人母親から 躾け
人脈坪内逍遥、若槻礼次郎から弓下賜、陸羯南、三宅雪嶺、村山龍平、大山郁夫、
備考父:江戸 城棟梁
論評

1875年(明治8年)11月30日 – 1969年(昭和44年)11月11日)は東京生まれ。ジャーナリスト、文明批評家、評論家、作家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。この「私の履歴書」では「日本の履歴書」のような内容になっていました。

1.明治初期の庶民の生活
明治維新後の日本には、古代日本の一つの特色と言われた、女性による家の教えがまだ引き継がれていて、家庭における子供の教育には、主として母親がそれに当たっていたが、しかしそれは書物や言語による教育ではなく、日常生活の言語・行動の型を子供の身につける躾で、子供たちは、家における目上のものの日常の態度・挙動の型をおのずと自分たちの身につけるようになるので、母親はただ子供たちがそれに外れた言葉使いや挙動をしたときに、それを正すだけで、七むずかしい小言をいうのではなかった。
 私の子供のころの町家では、家族たちが、座敷ではもちろん、茶の間でも、あぐらをかいたり、寝転がったりすることはなかったし、言葉使いも、互いに敬語を使った。父親だけは家族たちに話すのに敬語を使わなかったが、厳格な正しい言葉使いで、ことに子供たちに小言をいう際は、「いけません!」などと敬語を使ったのだった。

2.日本は「ニホン」か「ニッポン」か
いまは「日本」を「ニッポン」と発音するが、明治の半ば頃までの日本人は、皆「二ホン」と言って「ニッポン」とは言わなかった。私の入社した「日本」も「ニホン」で「ニッポン」ではない。古典の「日本書紀」も「ニホン書紀」で「ニッポン書紀」とは言わない。明治の中期ごろ、当時の軍部が、国号の「ニホン」では勇ましく聞こえないので、「ニッポン」というべきだと、官憲や学者や教員たちに、それを強制したので、大正のころから「ニッポン」になった。

3.短歌、俳句、川柳などの変遷
18世紀の中頃に、伊勢松阪の小児科医の本居宣長は、過去の公家独占のヤマト歌因習を破って、短歌を当時の町人や農民に教えて、古代の全国民的のものに還元するのに貢献したが、そうなると、独占者の京都公卿が、宣長を京都に招いて、その講義を聞くというようなことになって、宣長の養子の大平の代には、短歌の弟子が全国を通じて6000人もあったということだ。そんな例は、世界の詩文学の歴史には見られないことである。
 また江戸時代には、短歌に対して、江戸、大阪の町人社会の間に俳句が生まれて、江戸でも大阪でも市民の間に急速に普及して、選者と呼ばれたその師匠は、各種の職業に立った、主として町家の主人たちだった。
芭蕉を祖とした「正風」とか「蕉風」とかいわれた、やや文学的の俳句が生まれると、それに反逆したように、「狂歌」とか「狂句」とか「川柳」とか「都々逸」とか、俗語による短詩形文学が盛んに起こって、俳句も、江戸座といわれた通俗のそれが一層普及して、後水尾天皇も「あぜ溝を、飛び越え摘むや、やっとこ菜」なんていう江戸座の句を詠まれた。自然素人作家が無数にできて、町や村にあった神社や稲荷の額堂には、その氏子たちの詠んだ江戸座の俳句を書き連ねた額が掲げられていたものだった。

はせがわ にょぜかん

長谷川 如是閑
大正期の撮影
生誕 山本萬次郎
1875年11月30日
東京府深川区深川扇町
死没 (1969-11-11) 1969年11月11日(93歳没)
神奈川県小田原市[1]
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京法学院(現中央大学
職業 ジャーナリスト
文明批評家
評論家
思想家
小説家
団体 日本新聞社
大阪朝日新聞社
国民学術協会
法政大学大原社会問題研究所[2]
代表作 『現代国家批判』
『現代社会批判』
『日本ファシズム批判』
『日本的性格』
『ある心の自叙伝』
運動・動向 貴族院勅選議員
山本徳治郎・たけ
家族 大野静方(弟)
受賞 文化功労者表彰
栄誉 帝国芸術院会員、文化勲章受章
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長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年明治8年)11月30日 - 1969年昭和44年)11月11日[3])は、日本ジャーナリスト文明批評家、評論家小説家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。

  1. ^ “長谷川如是閑 はせがわにょぜかん”, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典, Britannica Japan, (2014), https://archive.is/uXP0m#4% 
  2. ^ “おおはらしゃかいもんだいけんきゅうじょ【大原社会問題研究所】”, 世界大百科事典 (2 ed.), 平凡社, https://archive.is/o7GCL#33% 
  3. ^ 「長谷川萬次郎」『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』152頁。
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