鈴木忠志 すずきたかし

芸術

掲載時肩書演出家
掲載期間2024/09/01〜2024/09/30
出身地静岡県清水
生年月日1939/06/20
掲載回数29 回
執筆時年齢85 歳
最終学歴
早稲田大学
学歴その他都立北園高
入社新劇団「自由舞台」結成
配偶者竹内弘子(演劇グループ後輩)
主な仕事早稲田小劇場、パリ公演、岩波ホール、利賀村劇場、米国公演、帝劇公演、財団法人、国際演劇祭、アテネ野外劇場、シアター・オリンピック、水戸芸術館、静岡県舞台芸術センター(SPAC)
恩師・恩人坊城俊民、郡司正勝、ジャンルイ・バロー、野村啓蔵、中沖豊、堤清二、石井隆一、石川嘉延
人脈村松友視、一柳慧、井伏鱒二、磯崎新、高野悦子、市原悦子、篠山紀信、武満徹、市川染五郎(現:松本白鷗)、鳳蘭、桑原武夫、八尋俊邦、小澤征爾、吉田忠裕
備考祖父:義太夫趣味、父:浪花節
論評

氏は、この「履歴書」に演出家として登場した蜷川幸雄(2012.4)に次いで、二人目である。氏の劇団は市場を国内だけでなく、海外にも求めた。そのため言葉と身体の訓練をスズキ・トレーニング・メソッドとして外国でも教えたのだった。地域振興と演劇とを通じて人々の精神を活性化させる事業をしたいため、両者を合わせ「二心同体」を肝に銘じ、演劇活動を行った世界的な人物であった。この「履歴書」には世話になった恩人や友人を丁寧に説明されているが、とても全て記録できないので、主な方にとどめた。

1.早稲田小劇場の創設
劇作家の別役実を加えた我々は1966年3月、早稲田小劇場を創設した。現在の劇団SCOT(Suzuki Company of Toga)はその後継である。ともに亡くなってしまったが、制作者として劇団を支えた斉藤郁子、中核俳優の蔦森皓祐はこのときからの同志だ。この小劇場は結成2か月後、アートシアター新宿文化で創立公演を行った。開演は夜9時半。実際にやってみると惨憺たるものだった。毎晩知り合いに電話を掛けて靴を磨きに来てもらった。この戯曲の主人公の一人は靴磨きである。私と別役が靴磨きをしているとお客が集まるとの支配人のアイデアからだった。どの新聞にも記事は出ず、知り合い以外のお客は来なかったが、面白い経験だった。ただ、寒かった夜の記憶がある。今ではこの経験が、その後の演劇活動のエネルギーを支えてくれたと思っている。どこへ行っても何があってもガンバレル、と。

2.アングラ四天王の呼称
演劇界でうねりが起り始めた。早稲田小劇場が開場した1966年は最近亡くなった唐十郎が野外公演をし、佐藤信や串田和美がビルの地下に小劇場を構えた年でもある。翌年には寺山修司が天井桟敷という劇団を結成した。私は寺山、唐、佐藤とともにアングラ四天王と呼ばれた。
 早稲田小劇場には、他大学出身の若者も入ってきた。稽古を見に来た港区役所税務課勤めの白石加代子が、退職して入団して来た。また、私のために唐が書いてくれた「少女仮面」の台本を親しかった吉行和子に送ると彼女も劇団民芸を辞めて、私の劇団に馳せ参じてくれた。

3.初の海外公演
私が初めての海外公演をしたのは、1972年4月、フランス政府主催の諸国民演劇祭(テアトル・デ・ナシオン)に招かれたときである。芸術監督は演出家で俳優のジャン=ルイ・バロー、映画「天井桟敷の人々」の名演で知られる人だった。
世界の36劇団が招待され、32歳の私は、「劇的なるものをめぐってⅡ」を演目とした。時間の制約があり、この演目の中から、鶴屋南北と泉鏡花の二つの場面を上演した。足を踏み鳴らすスタンディングオベーションを初めて経験した。客席にはデザイナーのピエール・カルダンやのちに文化大臣になるジャック・ラングの姿があった。私の演目の他には、亡くなった観世寿夫が能「道成寺」を舞い、野村万作が狂言「釣狐」を演じた。ともに私のその後の活動に協力してくれた人たちである。
諸国民演劇祭の翌年、ジャック・ラングが芸術監督をしていたナンシー演劇祭に招かれ、バローの主宰するレカミエ座、アムステルダムのミクリ劇場を回った。手ごたえは確かだった。これからは海外の市場で勝負しようと思った。6年連続で我々を呼んでくれたバローの助言はありがたかった。「スズキ、これから世界中から招待状が来るだろう。3回に1回は受けた方がいい。ただし全額招待が条件だと言いなさい。本当にこの人が欲しいと思ったら、交通費を自国で用意しろなどとは言わないものだ」。私を励ます実に親切な助言であった。バローとの出会いは私の演劇人生の転回点になった。公演で訪れた国は30を超える。日本で金を出し合って演劇をしていた我々は、海外の収入で何とか食べていけるようになった。

4.スズキ・トレーニング・メソッド
舞台の演技の基本は足の使い方にある。能であれば、すり足で歩行し、旋回し、足踏み(足拍子)する。上体はほとんど不動で、水平に動く。何百年も受け継がれた感覚は、現代の俳優の身体からかけ離れている。どうやって橋をかけるか。観世寿夫と現代俳優を共演させるとすれば、そのことに向き合わねばならない。
 私は東京の早稲田小劇場で、鶴屋南北や泉鏡花のテクストをもとに身体から言葉を発見する演技を探究した。そして一つのメソッドに行きついた。基本的な訓練は次のようなものだ。規則正しい音楽に合わせ、一定の時間足踏みする。腰を落として床を激しくたたきながら、水平に動く。音楽が終わると脱力して倒れる。そのまま死んだように横たわる。次いで、ゆるやかな音楽に合わせて思い思いに立ち上がり、直立の自然体に戻る。人間の動きは動と靜の連続した流れでできている。座り方だけでも正座、立て膝、蹲踞(そんきょ)など色々である。動態、静態を一連の動きに組合せれば呼吸は乱れず、言葉を発することができた。このメソッドが海外でも高く評価されるようになって欲しいと思った。

5.国際演劇祭の開催
日本で初めての国際演劇祭、利賀(とが)フェスティバルの第1回が開かれたのは、1982年の夏である。世界的な演劇人たちが、意気に感じて富山の山奥まできてくれた。人口が当時1300人ほどだった利賀村に、国内外から13,000人もの観客がつめかけた。制作の斉藤郁子や劇団員は準備のため、村を駆け回った。劇団にパソコンもファックスもない時代である。海外とは契約条件などを電話と電報、さらには手紙でやりとりをする。回覧する文書はほとんどガリ版だったが、普及し始めたコピー機が役場と農協にあったので、使わせてもらうときは自転車で走った。
 ポーランドからは67歳のカントールが、主宰するクリコット2とともに初来日した。英国のジョン・フォックスという演出家は、訪ねた国の物語を現地の素材でつくる。細かな注文にきりきり舞いさせられたが、アイヌ民族の物語をもとにシェイクスピアの「リア王」を野外の利賀スキー場で上演できた。アジアからはインドの他にブータンからの参加もあった。

6.演劇オリンピックスの開催
1995年、私は水戸芸術館の芸術総監督を辞め、財団法人静岡県舞台芸術センターの芸術総監督に就任した。シアター・オリンピックス開催にあたっては、施設の整備から始まって、海外の劇団招聘のために、多額の事業予算を必要とした。静岡県知事の石川嘉延さんは肚の据わった対応をしてくださった。静岡県舞台芸術センターという財団を設立し、自らが理事長になり、私を芸術総監督に就任させただけでなく、副理事長の任にも充てた。この方が私が一定の予算を使いやすいだろうとの配慮である。財団設立時の寄付行為には、芸術総監督の名称とその仕事を明記してくれた。財団の規則ともいうべき寄付行為にこの名称が記載されるのは、日本の行政史上初めてのことではないかと思う。
 1999年に開催されたシアター・オリンピックスが成功した一因は、4つの劇場と3つの稽古場、それに関係者の宿泊施設が用意されたことである。その一部が、私が芸術総監督として創設した劇団の専用施設になった。これらの施設はフル稼働し、2カ月の間に、20カ国42作品のチケットはすべて売り切れ、7万5千人の観客を動員した。
石川さんに何よりも励まされたのは、シアター・オリンピックスの開催時の挨拶である。石川さんは次のような内容のことを述べた。
 「富士山は、激しく噴火したから、日本一の高い山になった。しかし、ずっと噴火し続けたわけではない。激しく爆発が続けば、周囲が焼け焦げるだけである。富士山は、長い間少しずつ溶岩を溶かし続けたので、裾野の美しい姿になり、日本人を励ますことができた。このシアター・オリンピックスを契機として、静岡県の文化事業を長く続けた裾野の美しいものにしたいと思っている。みなさんのご協力をよろしくお願いしたい」と。

鈴木忠志

鈴木 忠志(すずき ただし、1939年6月20日 - )は、日本演出家。世界各地での上演活動や共同作業、俳優訓練法「スズキ・トレーニング・メソッド」で知られている。唐十郎寺山修司らとともに、1960年代におこった新しい演劇運動の代表的な担い手の一人である[1]

  1. ^ 演じることにはすでに批評行為が含まれている/舞台芸術家・鈴木忠志氏インタビュー”. SYNODOS (2014年10月3日). 2021年10月11日閲覧。
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