掲載時肩書 | 衆議院議員 |
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掲載期間 | 1988/01/01〜1988/01/31 |
出身地 | 山梨県 |
生年月日 | 1914/09/17 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 東京農業大学 |
学歴その他 | |
入社 | 中学教師 |
配偶者 | 玲子37歳死、再婚・悦子 |
主な仕事 | (柔道・酒)留置場、ワイン造り、衆議員、佐藤派、国対委員長、田中派、創政会→経世会、幹事長、副総裁 |
恩師・恩人 | 名取忠彦、広瀬忠久、保利茂 |
人脈 | 木村政彦、竹下登(同期:佐藤派)、田中角栄、二階堂進、中曽根康弘、後藤田正晴 |
備考 | 造り酒屋 |
1914年9月17日 – 1996年3月28日)は山梨県生まれ。政治家。同期当選には、竹下登・安倍晋太郎・倉成正らがおり、彼らと親交を深めた(特に竹下とは、自分の長男・康信と竹下の長女・一子を結婚させ親戚関係を結ぶまでになった)。1960年の日米安保条約改定に関する一連の騒動の際、混乱する国会の中、清瀬一郎衆議院議長(当時)を担いで議長席まで運び、会期延長と新安保条約可決へと繋げる。衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第35代)、副総理(民間活力導入担当大臣)、建設大臣(第34代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党副総裁(第9代)など。
1.安保国会の武勇伝
昭和35年(1960)、国会周辺はデモ隊に囲まれ、騒然としていた。警官はツバをはきかけられ、犬だ、猿だと罵倒されていた。そうした中で東大生の樺美智子さんの事件が起き、私は革命が起きるのはこういう時だと、危機感を抱いた。だから国会でも審議が進まず、私は清瀬一郎衆議院議長を担いで議場に入り、議長席につけた。当時の記録によると、議長は5月19日午後11時49分、議長席について50日間の会期延長を議決。いったん散会した後、20日午前零時5分、本会議を再開し、新安保条約を上程、可決した。
これより先、社会党の議員や秘書がピケを張っている議長室に入ってみたら、机を壊している奴はいる、イスを積み上げている奴はいるわの大混乱で、警官すら殴られている。社会党の連中が議長の薄い髪の毛を掴まえて放さない。私は彼らを引き離し、議長を担いで突進したのだった。
2.椎名裁定(三役無視で平然と「お経」)
昭和49年(1974)11月3日の文化の日である。田中総理は金脈問題で満身創痍になりながらも、最後の外遊となる豪州、ニュージーランド、ビルマ訪問の旅に出ていた。保利茂先生は東京の自宅から、私は山中湖の別荘からそれぞれゴルフ姿で、御殿場にあった椎名副総裁の別荘に向かった。近くのリゾートマンションに着き、その部屋から電話を入れると椎名さんは別荘の裏口から下駄をつっかけてやってきて打ち合わせた。
同年12月1日、自民党本部の副総裁室には二階堂幹事長、鈴木善幸総務会長、山中政調会長の三役と筆頭副幹事長の私、それに田村元さんがいた。そこへ椎名さんが入ってきた。二階堂さんは「いろいろお考えだと思うが、総裁を指名する前に、われわれ三役には胸の内をお聞かせ願いたい」と申し入れた。椎名さんは分かったのか分からないのか「ウン、ウン」と言っている。
やがて党本部の女性職員が「皆さん、おそろいです」と候補者が集まったことを告げた。椎名さんは「そうかい」ととぼけた顔を撫でて「チョッとトイレに行ってくる」と立ち上がった。当然、こちらに帰ってくると思っていたが、反対側のドアから候補者のいる総裁室に入ってしまった。あれあれと思っているうちに、椎名さんはお経、すなわち裁定を読んでしまった。納まらないのは三役で、勝手にしろと飛び出していった。この後、「オレの役目はお経を読むことで、後をまとめるのは筆頭幹事長のキミの役目だ。頼んだよ」と言い残してさっさと帰ってしまった。チョッとこのマネは私にはできない。
3.創政会旗揚げ
昭和60年(1985)12月25日、場所は築地の料亭「桂」に竹下登さんを含めて14人が集まった。メンバーの人選にはずいぶん頭をひねった。入って然るべき人だから私が「入れろ」と言ったのに、仲間が「いま入れたら彼はしゃべるから二度目でいい」ということで、入れなかった人もいた。年が明けた1月23日その夜、私はホテルニューオータニで開かれる田中派の衆議院選挙立候補予定者のパーティに行った。
私はパーティで挨拶を終えると、会場をすっと抜けた。同じように抜ける者がいる。抜けた者同士が再び集まったのが「桂」だった。25人。創政会の発足前夜、我々は赤坂プリンスホテル新館の12階に陣取った。83人の入会署名を集めたものの、オヤジは烈火のごとく怒っている。切り崩しもすさまじい。固く見て38か39人、うまく行けば42か43人というのが最終的なヨミだった。2月7日朝、創政会は旗揚げした。顔を出したのは40人ちょうどだった。2月27日夜、田中さんは倒れた。創政会はタイミングとしてはギリギリだった。
金丸 信 かねまる しん | |
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森本靖『逓信人物論・上巻』野村書店、1966年 | |
生年月日 | 1914年9月17日 |
出生地 | 日本 山梨県中巨摩郡今諏訪村 (現・南アルプス市) |
没年月日 | 1996年3月28日(81歳没) |
死没地 | 日本 |
出身校 | 東京農業大学専門部 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 紺綬褒章 |
配偶者 | 前妻・金丸玲子(-1958年) 後妻・金丸悦子(1961-1991年) |
内閣 | 第3次中曽根内閣 |
在任期間 | 1986年7月22日 - 1987年11月6日 |
第35代 防衛庁長官 | |
内閣 | 福田赳夫改造内閣 |
在任期間 | 1977年11月28日 - 1978年12月7日 |
第3代 国土庁長官 | |
内閣 | 三木内閣 |
在任期間 | 1974年12月9日 - 1976年9月15日 |
内閣 | 第2次田中角栄内閣 |
在任期間 | 1972年12月22日 - 1973年11月25日 |
選挙区 | 山梨県全県区 |
当選回数 | 12回 |
在任期間 | 1958年5月23日 - 1992年10月21日 |
その他の職歴 | |
自由民主党副総裁 (総裁:宮澤喜一) (1992年1月 - 1992年8月) | |
第26代 自由民主党幹事長 (総裁:中曽根康弘) (1984年10月 - 1986年7月) | |
第27代 自由民主党総務会長 (総裁:中曽根康弘) (1983年 - 1984年) | |
第16・24代 自由民主党国会対策委員長 (総裁:佐藤栄作、田中角栄) (1971年 - 1972年) (総裁:大平正芳) (1978年 - 1980年) |
金丸 信(かねまる しん、1914年〈大正3年〉9月17日 - 1996年〈平成8年〉3月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、副総理、民間活力導入担当大臣、防衛庁長官(第35代)、建設大臣(第34代)。