進藤武左ヱ門 しんどう ぶざえもん

電気・ガス

掲載時肩書水資源開発公団総裁
掲載期間1965/07/10〜1965/08/02
出身地山梨県
生年月日1896/12/19
掲載回数24 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
九州大学
学歴その他五高
入社東邦電力
配偶者妻(天風会員)
主な仕事欧米視察、東邦>東京電力>東京電灯、電力統制、資源庁長官、中電会長、電源開発公団、水資源開発公団
恩師・恩人松永安左エ門・小林一三・高崎達之助
人脈井上五郎(同期)、大橋武夫、工藤昭四郎、ベネズエラ大統領、河野一郎
備考剣道練士、父(地主):村に植林
論評

1896年 – 1981年)は山梨県生まれ。日本の実業家。日本発送電副総裁、中国電力初代会長、水資源開発公団(現・水資源機構)総裁などを務めた。東京電力を経て、東京電灯取締役、関東配電副社長、戦災復興院業務局長、資源庁長官、日本発送電副総裁、通商産業省(現・経済産業省)資源局長、行政審議会委員、中国電力会長、電源開発副総裁、大聖通商株式会社会長、愛知用水公団副総裁、水資源開発公団(現・水資源機構)総裁、電源開発調整審議会会長代理などを歴任。松永安左エ門や、小林一三、高碕達之助のもとで能力を発揮し、国力維持のための電源確保、水力・火力の発電計画、戦後経済復興ための電力供給に携わった。叔父は、東邦電力常務、九州鉄道(現・西日本鉄道)社長などを務めた進藤甲兵。

1.電力国家管理の功罪
群馬県の前橋支店に勤務すること4年、昭和12年の春東京電力本社転勤になり、営業次長に就任した。東京・田村町の本社の昔小林一三さんが座っておられた場所である。そのころは我が国が最良の時代であった。国力は伸長し、経済は豊かで、世界3大国の一つとして国際的にも重きをなしていた。会社の業績も飛躍的に向上し、収入は増加の一途をたどり集金成績は98%を超え、まさに電気事業の黄金時代といって差し支えない。電力需要の増加、集金成績の向上に連れて、発電所を始め電気施設の拡張も矢継ぎ早に行われた。
 しかし日華事変の勃発によって農村の労働力が次第に不足し始めたころ、電力国家管理問題が持ち上がり、官民の間に一大論争が巻き起こった。昭和14年、遂に国家管理が実現し、日本発送電が創立されて、全国の主要発電所は同社に移管された。だが、皮肉にもこの夏、わが国電気事業界にとって未曽有の電力制限が、電圧、周波数低下などの措置とともに、関東から中国地方にかけて実施されることになり、多年業者が努力してきたサービスの向上は、一朝にしてすっ飛んでしまった。
 昭和17年、配電統制令の実施によって、電気事業は完全に国家管理となり、わが社の社名も関東配電と変更され、私は理事・業務部長に任命された。

2.水資源開発公団で東京オリンピックの水飢饉回避を
昭和37年(1962)5月1日、水資源開発公団は発足し、私は総裁となった。主管大臣は企画庁長官であるが、主務大臣は7省という日本一複雑な組織である。おまけに事業の内容もダムあり、用水路あり、干拓あり、排水ありで、供給先も上水道、工業用水、農業用水から河川の浄化に及ぶというぐあいである。
 当時は39年の東京オリンピックを控えた東京の水事情は極度に悪化していた。ことは急を要した。そこで公団設立直後、私どもは急ぎ応急対策を協議した。そうして出てきたのが、利根川下流から荒川に連絡する導水路をつくって、利根川の余剰水を活用すること、さらに荒川―見沼代用水間を連結して、見沼代用水の余剰水を東京に導入する2つの計画である。この原案は関係各省に採用されて37年の晩秋から始まった。
東京の水ガメである小河内ダムの水量が、日照り続きで底が見えるほどに激減したため、政府も心配し、特にこの問題を担当していた河野一郎国務大臣は自ら先頭に立って督励してくれたので、工事は文字通り昼夜兼行で進められ、39年8月25日、遂に荒川からの取り水に成功した。こうして東京の水飢饉はひとまず緩和され、さらに余剰の水を隅田川浄化のために放流することもできた。

3.3恩人(松永安左エ門氏、小林一三氏、高碕達之助氏)
(1)松永氏は、佐賀中学時代の終わりから50年の長きにわたって現在もなおご指導を賜っている。わが国資本主義の勃興時代、九州の一角から立ち上がって、わが国の電気事業を世界有数の大企業に育て上げた。ことに関東大震災の前後、東京電灯のひざ元に切り込んだ時の松永さんの、あの英姿と盛んな闘魂は、今も私の脳裏に深く刻みつけられている。早くから目を海外に注ぎ、外資の導入、海外技術の採用など、常に先鞭をつけられ、また海外有力者との交遊では民間外交の実を、身をもってあげられた。そして幾多の英材を育て上げた。今日その門下生が電気事業で活躍しているさまは、壮観である。

(2)小林氏は、郷里の大先輩として、東京電灯以来、直接部下としてご指導をいただいた。今太閤の異名のように、知将をもって知られていた。徹底的な合理主義者で、綿密な調査計画をもとに種々の新事業を開拓された。だから小林さんの事業は百発百中であった。小林さんの手掛けられた諸事業は、いずれも収入現金主義であったから、金融に束縛されない強みがあり、しかも常に大衆を相手として、大衆の利益を第一とする経営方針を堅持されたのである。小林さんは私生活においても教えられるところが多い。時間の尊重、約束の厳守、公私の区別など、実にはっきりしていた。また、酒もたばこもたしなまれず、それでいて趣味が豊かで、人生を本当に楽しまれていた。

(3)高碕氏に知遇を得たのは昭和27年〈1952〉、電源開発に入社してからであるが、愛知用水に関係した時も、ご配慮をいただいた。一口に言えば、小林さんを天才的な事業経営者とすれば、高碕さんは非常にカンの鋭い人であったといえよう。見通しの早さ、間髪を入れない決断力には氏独自のものがあった。また、国際的感覚の豊富なのにも、つねに敬服させられたし、門戸開放型で、誰とでもよく会いよく話された態度にも教えられるところが多くあった。

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