辻清明 つじ きよあき

芸術

掲載時肩書陶芸家
掲載期間1995/08/01〜1995/08/31
出身地東京都
生年月日1927/01/04
掲載回数30 回
執筆時年齢68 歳
最終学歴
小学校
学歴その他家庭教師
入社いきなり個展
配偶者陶芸 娘
主な仕事14歳陶器研究所、セラミック装飾、信楽 「明るサビ」、窯・火のクセ、日仏交流、ガラス器展、
恩師・恩人板谷波山、 富本憲吉
人脈加藤唐九郎、岡部敢医師、藤原啓、金重陶陽、安部公房、岡本太郎、立花大亀、川喜田半泥子、平櫛田中
備考父パトロン 、南方熊楠、六古窯(瀬戸・常滑・信楽・越前・丹波・備前)
論評

1927年1月4日 – 2008年4月15日)は東京生まれ。陶芸家。陶芸家の辻󠄀輝子は姉。妻の辻󠄀協、子の辻󠄀文夫、甥の辻󠄀厚成、大甥の辻󠄀厚志はすべて陶芸家。骨董や古美術を愛好した父の辻󠄀清吉と、その父を頻繁に訪れる古美術商の影響で、幼少の頃から焼物に惹かれ、学校へはほとんど行かずに陶芸を学んだ。9歳か10歳ごろ、父にせがんで初めて買ってもらったのが、雄鶏をいただき透かし彫りのある野々村仁清作「色絵雄鶏香炉」だった(戦火で焼失)。

1.幼少から古美術とロクロ
骨董品と言えば、年齢を重ねた人の愛玩品であり、子供にはいかにも似合わない、信じられている。しかし、私は既に4,5歳の時から古美術品が大好きであった。小学校4年のとき気に入った野々村仁清が作った「色絵雌鶏香炉」と一対の「色絵雄鶏香炉」を父親から誕生祝いに買ってもらった。
 ロクロと付き合い始めたのも早かった。やはり10歳前後に父にロクロを買ってもらい、見よう見まねで回していた。焼きものの盛んな土地ならいざ知らず、東京の住宅地でロクロをこねっている子供はいなかった。

2.恩人:波山先生と富本先生
中学校に入学したころから、陶芸家を訪ねて歩くようになった。よく通ったのが、現在の世田谷区上祖師谷に窯があった富本憲吉先生と田端の板谷波山先生である。両先生は当時もっとも華々しく活躍していた作家で、特に波山先生は帝室技芸員として頂点を極めていた。私がまだ十代なので気を許されたのだった。
 波山先生は釉薬を二重掛けしていることをわざわざ作品を割って教えてくれた。さすがに色が違うと得心。
研究会のメンバーに加えてくれたのは富本先生である。末席に座を占め神妙にお話を聞いた。
 今も大事にしている「白磁面取香炉」をつくったのは16,17歳のころである。これを見た波山先生は「今までにない現代的な形」と評価する一方で「線を少なくしたらもっと良くなる」と助言してくれた。ところが、富本先生は「こういううるさい線は全く不要」と言う。波山先生は神経質そうに見えたが鷹揚なところがあり、富本先生は温和だが折り目が正しかった。

3.信楽・窯詰めの妙
窯の火は狭いところに入りたがる性質がある。火の動きを見極め、花入れはここ、茶碗はあちらと窯内の位置を決める。窯の構造などが大事なことはもちろんだが、重要なポイントは窯詰めにある。さらに火の道、灰の降りる場所を計算し、作品を立てたり寝かしたりする。信楽の裏では良質な唐津が焼けるし、同じ窯で磁器を焼くことさえ可能なのである。信楽を中心にする私と磁器も作る家内が一つの窯で焼くのもそれが出来るからである。

4.窯焚きは快感だが、極度の緊張と疲労などで困憊
窯焚きは、赤松の燃える香りや火がはじける音、炎の色などが一種の快感をもたらす。しかし、体験すればするほど容易でないことが実感されてくる。5日間も火を燃やし続けるから、火事には細心の神経を使わなければならないし、強い風雨も決定的な悪影響を及ぼす。昭和34年(1959)には台風15号で経験した。
 私の登り窯は、火を入れてから約100時間焚き続ける。もっとも時間をかけるのは、内部の温度を徐々に上げる炙り焚きである。やがて7,80時間後には第一の難所が巡って来る。千二百度から千三百度に上昇させる時である。窯の一の間がダメと分かったら、次の間を救うために見捨てることもある。この段階になると、熱気、緊張、不安、眠気、期待などが一緒くたになって襲ってくる。立ったまま秒読みで眠ることもあるのだ。白熱化した炎の中に観音菩薩の姿を見るのは、疲労が極度に達したころの幻影である。
 火を止めた時、窯の余韻を帯びた表情は形容のしようがない。中では火の洗礼を受けた土が生まれ変わっているはずだ。早く作品を見たいと窯を開けたくなるから、私は数日間、旅に出るのである。

辻 清明

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