掲載時肩書 | バイオリニスト |
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掲載期間 | 1988/04/01〜1988/04/30 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1926/03/16 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 62 歳 |
最終学歴 | 高等学校 |
学歴その他 | 相愛女学園 |
入社 | |
配偶者 | 9歳下 |
主な仕事 | 父:宝塚コン・マスター、家庭教師、曲目箱、ガダニーニ、ストラディバリウス(285歳) |
恩師・恩人 | 山田耕筰、小谷正一 |
人脈 | 絶対音感、9歳・陸(爆・戦・偵)、海(音波、位置・距離)、レオ・シロタ、三浦環、ローゼン・シュトック、甘粕正彦、朝比奈隆、オイストラフ、 |
備考 | 父が教師 |
1926年3月16日 – 大阪府生まれ。父はヴァイオリニストの辻吉之助。娘を絶対音感の持ち主と評価。
1935年にリサイタルデビューし、1938年には日本音楽コンクールヴァイオリン部門で第1位となる。その後ヴァイオリニストとして第一線として活躍している。1945年、甘粕正彦がハルビン交響楽団と新京交響楽団を合同し、周囲の音楽家も参加した全満合同交響楽団のソリストとして、満州各地で演奏旅行を行う。1973年に、自宅を3500万円で売却し、3000万のストラディバリウスを購入し、話題となる。
1.稽古が自信に
今、62歳だが、私は弾き続けている。日頃の練習ぶりを見て「そんなにしなくても・・・」とよく言われる。確かに、小品も含めてレパートリーの約300曲はそれほど勉強しなくてもいつでも弾ける。
演奏家は、作曲家がその曲に託した思いを最良の状態で聴衆に伝えなければならない。つねに完璧な演奏を求めることは不可能だが、万が一、出来が悪かったとしたら、その原因がどうであれ聴衆は許してくれないだろう。その不安感を取り除くには、やはり稽古に身を投ずるしかない。
真夜中に、ひとりで弓遣い、指遣い、部分練習を続けるのは、正直いってしんどい。しかし、稽古を済ませた後のあの充実感、ある確信をもってステージに上がれる期待感、その喜びがあるから、やはり稽古をおろそかにはできない。
2.暗譜の貯金箱
毎日続けるレッスンによって、暗譜で弾ける曲はどんどん増えていく。「久子、箱2つ作れ」と言われて、「なんかいな」と思いながら、千代紙を張った箱を作った。そして今まで覚えた曲の名前を、一枚一枚、紙切れに書いてその中に入れろと言う。「そん中でごちゃごちゃにして、一枚引いてみ」、「メンデルスゾーンのコンチェルトや」、「そうか」。父のタクトに合わせ私がそれを弾き、うまくいくと、その「曲名札」を一方の箱に入れる。間違ったり、出来が良くなかったらその札は元の箱に戻す。
翌日は、失敗したその曲の部分練習をする。それが終わると、前日同様にまた札を引く。「今度はモーツァルトや」。演奏会気分で、その曲を弾く。この繰り返しにより失敗が許されない演奏会に臨む心構えの訓練ができたことである。
3.絶対音感の役立て
9歳の時、父親から私は絶対音感の持ち主だと喜ばれた。このうわさが広まって、ある日、陸軍の呼び出しを受けた。場所は忘れたが、基地に行ってみると、上空を飛んでいる戦闘機や爆撃機、偵察機などの機種を、爆音によって識別せよという厳命だ。しかも、その型式まで聴き分けろ、という。私にとっては、爆音の違いはすぐ分かる。これは何、この音はあれ、と機種と型式を覚えこんだら、後は百発百中だった。爆音による敵機の識別が可能かどうかのテストだったらしい。陸軍はこの聴力を活用したかったようであるが、なにせ9歳の少女を軍が徴用するわけにもいかなかった。
10年後に、今度は海軍に呼び出され、潜水艦のエンジン音と航行音を聴いて、その位置を判定するように言われた。音波探知のテストだった。「ちゃんと分かったら将校にする」と言う。一瞬「将校服は似合うかしら」との思いが頭をかすめたが、あまり愉快な気分ではなかった。しかし、私の耳は流れてきた音波をとらえ、「東方、やく1キロ」などと的中させ、軍人さんたちをびっくりさせた。
4.表現のコツ
マエストロ(巨匠)として有名なローゼン・シュトック先生が新交響楽団(現NHK交響楽団)の指揮者として昭和11年(1936)に来日した。このローゼン先生がピアノを弾いて、モーツァルトの協奏曲第4番の練習を始めた途端、ストップがかかった。「久子、モーツァルトはガラス越しに見えるきれいな景色だ。いきなり手を出してつかもうとしてもガラスがあるからつかめない。でも、その景色は本当に立体的で美しいんだ」。一瞬、キョトンとしたが、突然、いくつかの絵はがきで見ただけのヨーロッパの風景が頭に浮かんだ。それを追いかけるように夢中で弾いた。「そう、それでいい」。先生の声でハッと我にかえると、満足そうな笑顔が目の前にあった。
私にとって一つの開眼だった。作曲者の思想、心の様相が譜面に記されている。それを読取り、隠されている景色、風のかおり、語り合う人々の情景などを自分なりに思い描きながら弾く。それに応じて聴いている人も、あるイメージを思い浮かべる。音楽とはそういうものではないだろうか。
5.演奏は聴衆に聴かせるのではなく、聴いていただくもの(オイストラフ師)
有名なトスカニーニが「もし彼が我々の前に姿を現したら、世界のバイオリニストたちは太陽の前の星のようにその光を失うだろう」と称賛したオイストラフ先生が、昭和30年(1955)2月に、初来日した。この先生が私の演奏を聴いてくれることになった。そして当日、先生がバイオリンの練習している部屋に入ると、練習している向かいに私を座らせてくれた。言葉は全く通じないから、指遣いや弓遣いを「こうするんだよ」と言った表情で示す。私は「分かります」というようにうなずく。いわば沈黙のレッスンである。そんな交流の中で、私が最も印象深かったのは「大衆に奉仕することが演奏家のあるべき姿です」という言葉だった。私は、聴衆に聴かせるのではなく、聴いて頂くという気持ちが大切なのだ、という意味に受け取った。目からウロコが落ちたような、すっきりした気分になり、私は”迷い“を卒業できるという自信を持った。
氏は‘21年7月13日に95歳で亡くなった。この「私の履歴書」に登場は1988年4月の62歳のときでした。氏の「私の履歴書」で、もっとも印象深かったのは、絶対音感の持ち主と評判が立った9歳の時に、陸軍の呼び出しを受け、基地に行ってみると、上空を飛んでいる戦闘機や爆撃機、偵察機などの機種を、爆音によって識別せよと言われた。そして、その型式まで聴き分けろ、とも。しかし、彼女にとっては、爆音の違いはすぐ分かる。これは何、この音はあれ、と機種と型式を覚えこんだら、「後は百発百中だった」と書いていた。へぇーと思ったものでした。
氏は、―私のことを”天才少女“と言う人に会うたびに、父は言い返してきた。「生まれながらの天才なんていない。60%の才能があれば後は努力の積み重ね。久子はそれをやっただけや」と。私が現在まで長続きしているのも極めて健康に恵まれたからだ。若くして病死した母・里津が、その余命を私に授けていってくれたのだろうと、しみじみ思うことがある。ただ、私が一番恐れているのは、深夜の一人稽古に耐えられなくなり、今の勉強時間が半分になっても弾けるという、怠け心を退けられなくなった時のこと。その時がバイオリンを置く日になるのだろうーと書いていた。
おつかれさまでした。ごゆっくり、お休みください。