掲載時肩書 | 日本商工会議所会頭 |
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掲載期間 | 1958/02/17〜1958/03/01 |
出身地 | 鳥取県境 |
生年月日 | 1883/02/28 |
掲載回数 | 14 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 松江中 |
入社 | 三井物産 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 台湾赴任、日東紅茶、王子製紙、卓球協会会長、生産性本部会長、日商会長、ラジオ東京会長、卓球協会会長 |
恩師・恩人 | 藤原銀次郎、 |
人脈 | 高商(菅礼之助、内田信也),池田成彬、藤山愛一郎、将棋(花田8段、塚田2段) |
備考 | 馬主、愛犬家 |
1883年(明治16年)2月28日 – 1973年(昭和48年)3月29日)は鳥取県生まれ。実業家、財界人である。三井物産へ入社、 1920年(大正9年)王子製紙取締役に就任 、1942年(昭和17年)同社社長就任 、1951年(昭和26年)ラジオ東京(現・TBS)創立に当たり取締役社長 、1956年(昭和31年)日本生産性本部会長、 1957年(昭和32年)東京商工会議所及び日本商工会議所会頭などを歴任、財界の重鎮として活躍した。
1.藤原銀次郎さんとの縁
明治38年(1903)夏、私は思い出多い一橋大学を卒業し、三井物産に入社した。当時物産には、のちに王子製紙を築いた藤原銀次郎さんがおられ、ちょうど台北支店長をしておられた。私が昔から藤原さんを知っているというと、会社は、それなら藤原さんの下で働いたらいい、ということで入社早々、台北に赴任と決まった。その時まだ22歳だったが、私は一人息子のため結婚しており、妻帯者として渡台した。
鳥取・境の私の生家と藤原銀次郎さんの奥さんの実家とは、実は隣同士で、親類同様に親しくお付き合いをしていた。そんなわけだから、私の家へ藤原さんから奥さんの身元調べに来た時には、父は太鼓判を押してあげたり、それが縁で二人が結ばれたのちは、藤原さんもちょくちょく私の家に遊びに見えた。
2.水力発電機メーカーの発注に悩む
明治44年(1911)12月、藤原さんの要請で三井物産を辞めて王子製紙に入ることになった。大正3年(1914)、私が機械、設備の買付の責任者になっていた。王子製紙にとって電力の供給は副業であるが、これを積極的に活用しようというのが藤原さんの方針である。そこで支笏湖の水の量と睨み合わせて5千キロの発電機を新たに備けることにしたのである。ところが、そのメーカーを国産にするか、米国のGEにするかで、当面の責任者として私は少なからず迷った。理由は、王子製紙の技術顧問をしていた岸敬二郎氏に意見を聴くと芝浦製作所でつくれというのである。岸氏は芝浦製作所の専務で、その道のエキスパートだから、十分な自信があってのことに違いない。国産で間に合うなら、外国注文は必要はないと。
ところが、実際にはそんな大型の発電機はまだ日本でつくったことがないのである。当然、危険を計算に入れておかねばならない。経営再建中の王子製紙としては、大事をとらなくてはならないから、重役会は国産反対の意向が相当強かった。結局、次の条件で芝浦製作所に注文したのである。
もし万一失敗したら芝浦は責任をとって米国GEから発電機を買って王子に弁償する、というのである。これなら王子としては、どう転んでも危険はないわけだ。結果は、芝浦製作所が非常に性能のいい発電機を完成させた。これは日本最初の大型発電機で、今もピンピンしている。
3.藤山愛一郎君は財界に残って欲しかった
私は藤山君の政界入りに最後まで反対した一人である。これは私のものの考え方と繋がりがあると思うので簡単に触れたい。東商副会頭になったいきさつは、藤山君から是非入って手伝って欲しい要請からだった。藤山君の財界における大成を祈る一人として、その手助けになればと思って副会頭になった。ところが昭和32年(1957)、藤山君が外相就任のために辞めたので、そのあとを私が引き継いだのだった。
私は藤山君のこれまで多年にわたって築いてきた財界の立場を棒に振ってしまうのが惜しかった。それに、性格的にいっても財界で終始するのがふさわしいように思われたのである。そんなわけで、できるなら政界入りを思いとどまってもらいたかった。何しろ、あれだけ立派な実績を持っている人だ。財界の第一人者に擬せられても少しの不足のある筈はない。岸信介首相の熱心な懇請に負けてしまった。私は政治家としての藤山君の力を疑うわけでは毛頭ない。むしろ、新鮮な感覚で財界と同様、すぐれた手並みを見せてくれることを確信していたが、ただ財界から離すのが残念だったのである。老いの一徹というか、私は最後まで藤山君に財界にとどまることを勧めたのである。
あだち ただし 足立 正 | |
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生誕 | 1883年2月28日 日本 鳥取県境町 (現在の境港市) |
死没 | 1973年3月29日(90歳没) |
出身校 | 東京高等商業学校 (現在の一橋大学)[1] |
職業 | 実業家、財界人 |
子供 | 二男 足立龍雄(実業家) 三男 足立仁三(実業家) 四男 足立壽惠雄(実業家) 長女 妙子(塩川三千勝の妻) 二女 富美子(山崎英吉の妻) 三女 道子(吉家光夫の妻) 四女 喜美子(船田昌一の妻) |
足立 正(あだち ただし、1883年(明治16年)2月28日 - 1973年(昭和48年)3月29日)は、日本の実業家・財界人。位階勲等は正三位勲一等旭日大綬章。号立堂。王子製紙社長、ラジオ東京(現・TBSホールディングス)初代社長・会長、日本民間放送連盟初代会長。日本商工会議所名誉会頭。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。