掲載時肩書 | 日本ユニセフ協会会長 |
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掲載期間 | 2021/12/01〜2021/12/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1929/08/24 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 92 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 神戸女学院、津田塾大学 |
入社 | 労働省 |
配偶者 | 学者(大学同期) |
主な仕事 | 婦人少年局、埼玉労働基準局、国連研修34歳、国連代表公使50歳、婦人少年局長、ウルグアイ大使、文部大臣、ベアテ・シロタ記録映画 |
恩師・恩人 | 藤田たき、市川房枝、緒方貞子 |
人脈 | 園佳也子(小同)、森山真弓(3上)、高橋展子(上司)、中村道子、松原亘子、高野悦子、藤原智子、岩田喜美枝 |
備考 | 父:著名画家、趣味(3ゴ:語学、ゴルフ、タンゴ) |
この「履歴書」に登場した女性の政治的活動リーダーは、今までに平塚らいてう、神近市子、市川房枝、奥むめお、山高しげり、山口淑子、扇千景、土井たか子の8氏がいるが、官僚出身の女性は赤松氏が今回初めてでした。氏は男女平等を願い、それを男女雇用機会均等法として法律的に裏付ける困難な道筋を丁寧に解説してくれていた。具体的には、70年代に勤労青少年福祉法から勤労婦人福祉法(育児休業)へ、75年国連総会での「国際婦人年」制定をもとに「女子差別撤廃条約」が採択され、これに批准するため国会での「男女雇用機会均等法」成立の必要があり事務局側として奔走した。幾多の困難を乗り越えて85年5月に成立させ、翌86年4月施行にこぎつけた。これによりギリギリ国連の「女子差別撤廃条約」に批准することができた。戦後の女性権利獲得史でした。
1.国連研修で得たもの
1963年10月10日34歳のとき、国連研修で米国に渡った。ケネディ時代の米国は輝いていた。人種差別撤廃を訴える公民権運動が盛んで、女性もとても元気がよい。そしてコーネル大学のアリス・クック教授から世代を超えた「友達」の大切さを学んだ。長い人生の中で自分を支えてくれるもの。それは「友人」だろう。お金では買えない、人生最高の財産の一つだ。相手を大切に思い、自分から動いてこそ縁はしっかりと結ばれる。職場に限らず、年代を問わず、良い友人を得るために、時間とエネルギーを惜しむべきではないと思っている。
2.仕事のできる課長心得
1968年38歳のとき、群馬県労働基準局の労災補償課長になった。課長になる前は、いわば修業時代。自分がしたい仕事をすればよかった。これからは人に気持ちよく働いてもらい、大勢で仕事の成果をあげてはじめて、自分の責任を果たせる立場になる。鋭さよりも包容力、攻撃よりも忍耐力が大切だと知り、毒舌を振るって得意がるようなことは自重した。バランスのとれた判断が重要だと実感した。
仕事だけではだめだと思い、5時以降に飲み会をする。着任当初は係ごとに3回に分けて歓迎会をやり、さしつさされつを繰り返した。幸い私は酒が強かった。その後も「付き合いのいい人」と思われたようだ。
3.男女雇用機会均等法の成立
1985年5月17日、この法案が衆院本会議で成立した。職場での男女平等のための法律だが、差別禁止は定年など一部にとどまり、ほとんどが「努力義務」だった。前年の国会審議の中で「この法案で法律として出来上がったと感じますか」と質問されたことがある。官僚としては「ベストな法案を出している」が模範回答だが、私は「百点満点だとは決して思っておりません。見直しを今後も引き続き行っていくべきだと思います。しかし、この法律があることによって、その進歩が現実により具体的になることを、私は信じています」と。
妥協なしでは、法律の成立は難しかった。内容が不十分であっても、ゼロと1では大きく違う。この均等法は86年4月に施行され、総合職などでも女性の採用が始まり、「均等法世代」と呼ばれた。これにより97年の改正で差別禁止規定が強化され、セクハラ対策も設けられたのだった。
4.ベアテ・シロタ・ゴードンの記録映画作成
彼女は現在の日本国憲法が制定される際、GHQの職員として草案つくりに参加し、女性の権利を盛り込んでくれた女性である。(父親はピアニストのレオ・シロタ(東京芸大教授)で園田高広、辻久子らを指導)
岩波ホール支配人の高野悦子さんの助言で、ベアテを顕彰するベアテ映画製作委員会が発足した。私が代表、落合良さんが副代表、岩田喜美枝さんが事務局長になった。監督は私の長年の友人であり、文化芸術分野を中心にドキュメンタリー作品を手掛けている藤原智子さんが引き受けてくれた。映画は彼女の人生と共に、発足まもない労働省婦人少年局のスタッフの奮戦ぶりなど戦後60年間の女性史を概観するものになっている。映画「ベアテの贈りもの」は、05年4月、岩波ホールで公開された。その後、全国でも上映され、英仏独伊の4か国の字幕を付けて海外へも広がった。藤原監督は芸術選文部科学大臣賞も受賞した。ベアテさんが草案にかかわり、女性のための条文を残してくれたからこそ、いまの日本の女性たちがあると感謝している。
氏は2024年2月7日94歳で亡くなったと報道された。氏の「私の履歴書」登場は2021年12月で92歳のときでした。
1.雌伏時代
1960年、まる2年務めた埼玉労働基準局から、やっと労働省本省に異動になった。配属先は、希望していた職業安定局だった。これで新しい仕事ができる。一瞬、そう期待した。しかし部署は、労働市場調査課。またもや調査の担当だった。異動のたびにさまざまな経験を積んでいる男性の同期に比べ、余りに単調だ。腹が立ったし、がっかりもした。
係長とは名ばかりで、係員はひとりもいない。全国から集まってくる調査票を整理し、書き写すのが仕事だった。。多少、語句を整えることはあっても、工夫の余地は少ない。モチベーションの維持は難しい。でも落ち込んでばかりではない。今は不遇の時代、雌伏の時なのだ。ならば職場の外で、挑戦すればいい。早くからそう思い定めていた面もあった。
もともと「やれ」と言われたことより、もっと面白いこと、役立つことはないかと探したがる性格でもある。自分に力をつけておけば、きっとチャンスがやってくる。そう思って不満をなだめていたときなのだった。打込んだことの一つが、研究と学術論文執筆であった。最初に書いた論文は56年。学者である夫との共同執筆という形をとり、研究書に収録された。
59年には社会政策学会で「婦人労働者の保護」を発表した。女性には残業時間の制限などの保護規定がある。これが実際以上に、女性の低賃金などの口実として使われているのではないか。また、長時間労働など男性を含めた職場全体の問題に目を向けなれば、女性はいつまでも半人前にしか扱われないのではないか・・・・。今に通じる問題ができたと思う。そして、その後も論文は多く書き続けた。
*日本経済新聞2024年2月8日付に赤松氏への「評伝」が下記のように掲載されていた。
男女平等に働きたいと思っても、壁の多かった時代。強みとなったのは、役所の外にも活躍の場を求めたことだ。多くの論文を執筆し、さまざまな人脈を広げた。国際感覚にも優れ、海外研修で欧米の働く女性の状況を見て回った。年齢や分野を問わず、国内外に多くの友人を持つ人だった。
緻密で論理的、それでいて明るくユーモアもある。1960年代、女性の「結婚退職制」による解雇を無効とした判決が出ると、赤松良子ならぬ「青杉優子」のペンネームで、雑誌に喜びの評論を書いた。
本領を発揮したのが、均等法だ。日本は国連の女子差別撤廃条約への批准を目指しており、そのための国内法整備が必要だった。国連公使として条約に賛成票を投じた赤松さんが82年、担当の局長に就任。経済界の根強い反対に対し、国際社会の流れを説き、根回ししてまわった。
一方で、条文の多くが努力義務にとどまり、労働側の反発も強かった。妥協した法律とすることは、本人にとっても重い決断だったろう。「小さく産んで大きく育てる」「ゼロと1は違う」との思いは、その後の改正で結実した。
退官後も、非政府組織(NGO)などの立場から活動を続け、生涯現役を貫いた。とりわけ、経済分野よりさらに遅れる政治分野の女性参画に力を入れてきた。「100までやる」と周囲に公言していた。
原点には、かつて小学校も卒業できなかったという母親への思いがあっただろう。春には母親の郷里である高知に行く計画も温めていたという。
好きな言葉に「長い列に加わる」をあげる。婦人参政権などを求めて戦前から活動してきた市川房枝・元参院議員や藤田たき・元津田塾大学長ら先人の努力に自らも加わり、後輩たちが後に続くのを励ましながら、笑顔で歩き抜けていった。(編集委員 辻本浩子)
赤松良子 あかまつ りょうこ | |
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赤松良子(1993年) | |
生年月日 | 1929年8月24日 |
出生地 | 大阪府大阪市 |
没年月日 | 2024年2月6日(94歳没) |
出身校 | 津田塾専門学校(現:津田塾大学)英語学科 卒業[注釈 1]、 東京大学(旧制)法学部 卒業[注釈 1] |
前職 | 文京女子大学教授 |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 従三位 旭日大綬章 法学士(東京大学・1953年) |
第118-119代 文部大臣 | |
内閣 | 細川内閣 羽田内閣 |
在任期間 | 1993年8月9日 - 1994年6月30日 |
赤松 良子(あかまつ りょうこ、1929年〈昭和4年〉8月24日 - 2024年〈令和6年〉2月6日[1])は、日本の労働官僚、外交官、政治家。位階は従三位、勲等は旭日大綬章。筆名は青杉 優子。在ウルグアイ大使、文部大臣、公益財団法人日本ユニセフ協会会長を歴任した。女性の政治参画拡大を目指す市民団体「Qの会」代表[2]。労働省の婦人局長として、1986年に施行された男女雇用機会均等法の成立に尽力し「均等法の母」と呼ばれた[3]。
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