掲載時肩書 | 京都大名誉教授 |
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掲載期間 | 1968/07/22〜1968/08/20 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1904/05/01 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 64 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 東方文化学院研究所 |
配偶者 | 貝塚に養子 |
主な仕事 | 北京出張、京大、甲骨文研究、人文科学研究所 |
恩師・恩人 | 浜田耕作・内藤湖南・狩野君山・教授、岳父貝塚 |
人脈 | 祖父は福沢門下(小泉信吉友人),桑原武夫(中高大)、難波捷吾、三好達治、吉川幸次郎、細川護立、志賀直哉、梅原龍三郎 |
備考 | 父、兄芳樹、弟・秀樹(3男・ノーベル賞)、弟・環樹(4男)全て京大教授 |
1904年(明治37年)5月1日 – 1987年(昭和62年)2月9日)は東京生まれ。東洋学者、中国史学者。地質学者・小川琢治の次男。従前の文献学的な中国古代史の研究に対して、甲骨文字や金文に代表される出土資料に着目した研究方法を日本で初めて提唱した。戦後、中国やアメリカとの文化的な交流にも尽力し、学術および文化の向上に大きく貢献した。加えて東洋史・日中の比較文化・中国の近現代史にも関心が高く、その方面でも研究を推進し著作の多くが重版されている。長兄は小川芳樹(金属工学・冶金学)。三弟は湯川秀樹(物理学、日本人初のノーベル賞受賞者(物理学賞))。四弟は小川環樹(中国文学者・京大名誉教授)。旧姓は小川、貝塚は1945年(昭和20年)に入り婿した妻の実家の姓である。
1.叔父の炯眼恐るべし
大正12年(1923)、私の三高在学時代、弟の秀樹と共に一高三高野球の応援のため上京した時、大森の阪田邸を訪れた。逓信省電気試験所技師の小川一清に嫁していた長姉の家の近所にあったからである。鬱蒼と樹木が生い茂った広大な庭園を前にした座敷で、久しぶりで英一、泰二の兄弟と歓談した。
座に顔を見せた阪田叔父(母の妹婿)は、金縁めがねの底から鋭い目を光らせて、我ら兄弟を観察した末でこう言った。「小川の5人兄弟の中では秀樹さんがきっと一番出世するに違いない。その目つきが違う。家の英一、泰二のうち泰二がよくなる。やっぱり目つきでわかる」。後にノーベル賞を得た秀樹を、当時、すでに成すところがあるに違いないと見抜いたのは、さすが阪田叔父の炯眼恐れるべきだったと、後年に思い知った。当時の私どもは炯炯たる目に見据えられて、身が縮む思いがしたのだった。
2.東方文化学院研究所の開設
昭和5年(1930)11月、東方文化学院研究所の建物が落成し、開所の披露を行った。狩野直喜博士を所長にいただき、内藤虎次郎、矢野仁一名誉教授、鈴木虎雄、羽田亨、浜田耕作教授ら京都の支那学者の碩学が理事、評議員として参加された。
研究所の使命は第二次京都支那学を担う学徒を養成することであった。その面々は考古学の梅原末治、中国文学の倉石武四郎、吉川幸次郎、歴史の安部健夫、地理の森鹿蔵、考古学の水野清一、長広敏雄、中国仏教史の塚本善隆、科学史の能田忠亮君らで、史記カードの作成を終えた私はその末席に連なった。
研究所は北白川小倉町の小高い丘の上に建っていた。浜田耕作(青陵)先生の好みで、尖塔をいただいたスパニッシュ、ロマネスクの教会を模した建物である。個室は修道院の修道士の部屋そっくりであった。
3.東方文化学院研究所から人文科学研究所に発展的改称
昭和24年(1949)、鳥養総長は東方文化研究所から京大文学部に転じて、中国文学を講じていた吉川幸次郎教授と人文科学研究所長安部健夫教授の意見に基づいて、東方文化研究所と同じく占領軍によって取り潰される危機に陥っていた西洋文化研究所を包摂して大人文科学研究所に発展させる計画を立てられた。こうして、同年4月新たに世界文化に関する人文科学の総合研究を行うため人文科学研究所が発足した。
私ども東方文化研究所の所員の大部分はこの人文科学研究所に移籍され、京大教授、助教授、助手等に任命された。私は教授としてその一員となった。そして安部健夫君の病気辞職に伴って、10月1日人文科学研究所所長に選挙された。それ以後、昭和30年(1955)にいたるまで3期、6年間にわたって、創成期の人文科学研究所を整備する責任を担当することになった。
就任した当座は戸惑った。それに人文科研は東方部、西洋部、日本部に分けられている。東方部は文学部出身の顔なじみばかりであるが、西洋部、日本部は初対面で進歩的な人が多かった。これらの教授、助教授、講師を含めた所員会を主宰する自信は皆目もち合わせなかった。
生誕 | 1904年5月1日 日本東京府 |
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死没 | 1987年2月9日(82歳没) 日本京都府京都市 |
研究分野 | 中国史 |
研究機関 | 京都大学人文科学研究所 |
出身校 | 京都帝国大学(学士・修士) 京都大学(博士) |
主な業績 | 京都学派 出土資料に着目した歴史学 |
主な受賞歴 | 朝日賞(1948年) 毎日出版文化賞(1962年) 勲二等瑞宝章(1974年) 文化功労者(1976年) 文化勲章(1984年) 贈従三位勲一等瑞宝章(没時叙位陞勲) |
プロジェクト:人物伝 |
貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月9日)は、日本の東洋学者、中国史学者、中国考古学者。京都大学名誉教授。文学博士。勲二等瑞宝章叙勲、文化功労者顕彰、文化勲章受章。
地質学者・小川琢治の次男。長兄は小川芳樹(金属工学・冶金学)。三弟は湯川秀樹(物理学、日本人初のノーベル賞受賞者(物理学賞))。四弟は小川環樹(中国文学者・京大名誉教授)。なお、末弟の小川滋樹(ますき)は第二次世界大戦で戦病死している。長男は貝塚啓明(経済学者・東大名誉教授)。旧姓は小川、貝塚は1945年(昭和20年)に入り婿した妻の実家の姓である。