掲載時肩書 | トヨタ自動車会長 |
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掲載期間 | 1984/09/18〜1984/10/15 |
出身地 | 愛知県名古屋 |
生年月日 | 1913/09/12 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 八高 |
入社 | 豊田自動織機 |
配偶者 | 鈴木商店番頭娘 |
主な仕事 | フォード3か月研修、ジャストインタイム、日野・ダイハツ提携、カローラ、GM提携、製販合併、トヨタ財団、豊田工業大学 |
恩師・恩人 | 高梨壮夫、石田退三 |
人脈 | 岩間正男、石本恵吉、佐野周二、加藤誠之、神谷正太郎、花井正八 |
備考 | 長男佐吉、次男平吉(次男豊二)、三男佐助、利三郎(佐吉妹婿)喜一郎(佐吉長男) 章一郎(喜一郎長男) |
1913年(大正2年)9月12日 – 2013年(平成25年)9月17日)は愛知県生まれ。実業家。豊田佐吉の甥。トヨタ自動車工業株式会社社長(第5代)、トヨタ自動車株式会社会長(初代)、同社名誉会長(初代)、同社最高顧問(初代)、社団法人日本自動車工業会会長(第2代)、財団法人トヨタ財団理事長(初代)、学校法人トヨタ学園理事長(初代)、学校法人トヨタ東京整備学園理事長(初代)などを歴任した。石田退三と共に「トヨタ中興の祖」と呼ばれている。日本初のミッドシップスポーツカーであるトヨタ・MR2は、豊田が飛ばした「トヨタにはひと味違ったクルマが必要だ」という檄がきっかけで開発が始まった。
1.伯父・豊田佐吉
父平吉の兄である佐吉は、長男の喜一郎には厳しかったが私には非常に優しかった。喜一郎と私は18歳も違っていたので、私を甥というより、むしろ孫として見ていたのかもしれない。佐吉にすれば、孫でも甥でも直接教育に責任がないから、いいおじいちゃんぶりを発揮したのだろう。
佐吉については、今なお凧あげが強い印象として残っている。佐吉は凧が好きだった。タタミ何畳もある大凧を自分で作り、夏5月に揚げる。当時、5月に凧揚げするのを不思議に思ったが、緑豊かな5月の山に、一人では持てぬほどの凧が鯨のヒゲを弓にして唸りの音を響かせる。凧を見つめながら糸を操る佐吉の姿は、今でも思い出す。
私がもの心ついたころ、豊田の織機は御木本の真珠、鈴木のバイオリンと共に有名になっており、佐吉は名声を馳せていた。しかし、小さいころから佐吉を身近に見てきたせいか、生前、佐吉を「伯父さん」として見たことはあっても、「発明家佐吉」として見たことはなかった。
2.トヨタ自動車工業の設立と計画
会社の設立と挙母工場の建設は昭和12年(1937)3月、豊田自動織機の役員会の席で決まった。喜一郎は「原価計算と今後の予想」という論文を書いて、役員会に諮った。その基になったのが、11年10~12月の3か月間の原価計算のデータである。
喜一郎の計算では、会社設立から第3期(1年半)は準備期間でゴタゴタするから、百万円ぐらいの損失が出る。第4期は挙母工場へ引っ越して運転を始めるが、フル操業できないので月産千台でいく。そうすると利益が百二十万円出る。第5期は月産千5百台でいき、通期9千台生産すると百八十万円の利益が出る。第6期に五分の初配当をする。この好調を維持すれば、5年後の第10期には借入金も完済できる。
ざっとこんな調子だった。日中戦争の特需があって、計画は軌道に乗った。工場の建設も順調に進み、13年春からは大量の人員を採用し始めた。その頃私は、そういう人たちに自動車づくりを教える先生の役をやらされた。
3.軍要請の自動車生産
昭和16年〈1941〉からの戦時中はとにかくいろんな車を造った。軍の要請で四輪駆動の水陸両用車もつくった。これは文字通り水の中では、スクリューを回して船のように、陸では普通の車として走る。最初の試運転は私も乗って三河湾でやった。軍は隅田川でテストした。
それから山中を担いでいく、変なトラックもつくった。山の中は走れないので、分解して兵隊が担いでいって、道路のある所に来たら組み立てて走る。フレームは切ってあり、ボルトを外せばバラバラになる。この車はニューギニアの奥地で実際に使われた。
自動車以外でも自動車のエンジンを使ったボートもつくった。ベニヤ板製のボートに魚雷をつけて敵の船にぶつけようというもので、全部で1万台ぐらいつくった。飛行機エンジンは川崎航空機と共同で東海飛行機という会社をつくり、専用工場も建設したが、工場が稼働する前に戦争が終わってしまった。
トヨタ中興の祖が’13年9月17日100歳で亡くなった。父親平吉は自動織機の発明者・豊田佐吉の弟であった。佐吉の長男・喜一郎社長の右腕としてトヨタの創成期を支え、喜一郎の急逝後も高級車の草分けとなる「クラウン」や大衆車「カローラ」を世に送り出し、日本のモータリゼーションの発展に大きな功績を遺した。「私の履歴書」には71歳のときに登場した。そのとき佐吉の思い出を書いている。
1.親父の3兄弟は酒好き
おやじの兄弟、つまり豊田佐吉、平吉、佐助は異常に仲が良かった。みんな酒好きだが、末っ子の佐助が一番強かった。うちの親父も好きだが一番弱い。長男の佐吉は真ん中ぐらいだろう。おじいさんの伊吉は大工だった。大工は毎日仕事があるわけではないから、農業もやる。大工の仕事があると、それをやって現金収入を得ていたのであろう。佐吉も見よう見まねで大工仕事をやっていた。初めは伊吉が教えていたのだろうが、おやはなかなか教えにくい。だから豊橋の大工の棟梁に弟子入りさせた。佐吉が最初につくった「かせ繰り機」は、機械と言っても、要は大工仕事の延長であったわけだ。
2.トヨタ生産方式
徹底して無駄を省く「トヨタ生産方式」を体系化したのは副社長の大野耐一氏であるが、それを実践し浸透させたのは英二氏だ。このカイゼンカンバン、現場主義の生産方式活動がトヨタのDNAとなり日本最大の優良企業となっている。
とよだ えいじ 豊田 英二 | |
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豊田英二 | |
生誕 | 1913年9月12日 愛知県西春日井郡金城村 |
死没 | 2013年9月17日(100歳没) 愛知県豊田市 |
死因 | 心不全 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学工学部卒業 |
職業 | 実業家 |
配偶者 | 豊田寿子(妻) |
子供 | 豊田幹司郎(長男) 豊田鐵郎(二男) 豊田周平(三男) |
親 | 豊田平吉(父) |
親戚 | 豊田佐吉(伯父) 豊田佐助(叔父) 豊田芳年(弟) 豊田喜一郎(従兄) 豊田章一郎(従甥) 豊田達郎(従甥) 豊田章男(従姪孫) 豊田達也(従姪孫) |
豊田 英二(とよだ えいじ、1913年(大正2年)9月12日 - 2013年(平成25年)9月17日)は、日本の実業家。位階は正三位。勲等は勲一等。豊田佐吉の甥。
トヨタ自動車工業株式会社社長(第5代)、トヨタ自動車株式会社会長(初代)、同社名誉会長(初代)、同社最高顧問(初代)、社団法人日本自動車工業会会長(第2代)、財団法人トヨタ財団理事長(初代)、学校法人トヨタ学園理事長(初代)、学校法人トヨタ東京整備学園理事長(初代)、助成財団資料センター(現公益財団法人助成財団センター)理事長(初代)などを歴任した。石田退三と共に[1][2]「トヨタ中興の祖」と呼ばれている[3][4][5]。