掲載時肩書 | 秩父セメント社長 |
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掲載期間 | 1960/05/01〜1960/05/28 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1896/01/11 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 64 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 大学院経済学研究科 |
入社 | 母校助手 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 東大講師20年、秩父セメント(父創立)、郵便局長、経済連盟(永野重雄・桜田武・小笠原光雄)→経団連、日経連、 |
恩師・恩人 | 父・諸井恒平、大友幸助社長 |
人脈 | 河合栄治郎・森戸辰男(先輩)向坂逸郎(同窓)、菊池寛、谷崎潤一郎、中島健藏、渋沢敬三、谷口吉郎 |
備考 | 渋沢栄一(父と同郷友人) |
1896年1月11日 – 1968年5月21日)は東京府(現東京都)生まれ。実業家。セメント製造事業の開拓を手掛けた諸井恒平(渋沢栄一と親類関係に当たる)の長男で、東諸井家12代当主。秩父セメント(現太平洋セメント)社長、秩父鉄道会長、埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)会長、日本煉瓦製造会社会長を歴任し、経済団体連合会(経団連)の創設など日本の近代化に深く貢献した。弟は2人おり、諸井桃二(1938年没)は官吏(商工省統制課長)を務め、末弟の諸井三郎は作曲家として高名である。また、義理の従兄に柳田誠二郎(日本航空社長)がいる。
1.東大講師20年
大正13年(1924)、私は母校の講師になった。工学部の学生に「工業経済学」を講じたが、私のいう工業経済学は一般経済学、基礎経済学の応用編とでもいうか、いずれにしても工業経済に一つの基本的理論を持つことが、やがてはいい工業政策を生み、いい経営を生み出すだろう、という狙いだった。
これより先、大正12年1月、父は秩父セメントを創立したのである。若い頃からいろんな仕事をしてきた父は、60を過ぎて手を付けたこのセメント事業を、最後の希望、最後のご奉公だと言っていた。そして父は「理想の事業経営は自分の一生の間だけではできないから、是非俺の理想を受け継いでやってくれ」と私に言った。そんな頃のある日、父は私のことで渋沢栄一さんに相談すると「一日も早く実業界に入れるべきだ」と言ってくれたと鬼の首を取ってきたように、父はそう言った。
学者として立っていくのは、健康も才能も性格の上でも自信がなかったし、それに産業界で働くのが年来の宿願でもあったので、大正14年2月、私は秩父セメントに入った。とはいうものの、大学にも義理があるので依然講師は兼任したが、その講師生活が、昭和15年に辞めるまで、20年近くも続いたのである。
2.名前・貫一の由来
昭和5年(1930)、石灰山紛争の調停を渋沢栄一さんの尽力で解決することができ、お礼の挨拶でお会いした。渋沢さんは私に「お前の名前は貫一だが、その貫一という名の由来を知っているか、これは論語の中にある言葉だ」と言われた。その時の渋沢さんの話を要約するとこういうことになる。
―あるとき孔子が愛弟子の曾子に「わが道は一をもって之を貫く」と言った。すると曾子は「その通りです」とこたえた。孔子が去った後この問答を聞いていた他の弟子たちは、どういう意味かと曾子に尋ねた。曾子はこう説明したという。「先生のいう道とは忠恕ということである」。そこで忠とは自己の主義、主張や自分の仕事に忠実であるということであり、恕とは許すということ、すなわち相手方の立場も理解してやるという意味だった。渋沢さんはさらに言葉を継いで私に向かって「お前は自分の立場に忠実なのは結構だが、同時に恕、つまり相手の立場も理解してやるという広い気持ちを持たねば、世の中に円満に処していくことはできない」と、諭してくれた。この一言は、いまだに胆に命じている。
3.日本経済連盟から経済団体連合へ
大戦後、敗戦の事実に直面してこれからの日本経済を、日本の産業を、どう持っていくかという同憂の士が日本工業俱楽部に集まるようになった。ここに集まる面々は、膳桂之助さん、植村甲午郎君、足立正さん等で、元老格の宮島清次郎さんや米国で大学をやった浅野良三さん等の顔もよく見えていた。
年が明けて21年(1946)になると追放令から財閥解体、ついで財界人の追放があって、日本経済連盟の運営も行き詰って会長や副会長を決めることも出来なくなった。そこでやむを得ず運営委員会をつくり、小笠原光雄、永野重雄、桜田武の3君と私の4人で運営に当たることになった。当時の私の心境は、ちょうど青年団員が焼け跡を整理してバラックを建てようとするそれに似ていた。実際、そんなものであった。
やがて22年の後半になると、石川一郎さんが経団連の会長に就任し、宮島清次郎さんも工業倶楽部の理事長として活動を始められ、石坂泰三さんも動ける見通しがつき、先行きが明るくなってきた。