掲載時肩書 | 東北大学教授 |
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掲載期間 | 1985/04/01〜1985/04/30 |
出身地 | 宮城県 |
生年月日 | 1926/09/12 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 59 歳 |
最終学歴 | 東北大学 |
学歴その他 | 二高 |
入社 | 助手 |
配偶者 | 早川種三・娘 |
主な仕事 | 絵画(モネ)、音楽(レコード2千枚)、トランジスタ、半導体レーザー、発光ダイオード、光ファイバー、ミスター半導体、光通信の父 |
恩師・恩人 | 渡辺寧教授 |
人脈 | 鳩山道夫、尾見半左右、高橋正、小池勇二郎、大久保謙、黒川利雄 |
備考 | 父、東北大 教授 |
1926年9月12日 – 2018年10月21日)は宮城県生まれ。工学者。専門は電子工学・通信工学で、半導体デバイス、半導体プロセス、光通信の開発で独創的な業績を挙げた。半導体関連の特許保有件数は世界最多である。特許を多数出願しているが、弁理士に依頼せず自ら出願書類を執筆している。
1.座右の銘・・・愚直一徹
自分をごまかさない。納得いくまでものを考える。考えた結論をもとに試してみる。こうした姿勢は非常に大事だと思う。研究現場にこれを当てはめてみると、これはもはや常識になっているから、高名な先生が言っているから、というだけでその部分を素っ飛ばして研究するのではなく、こつこつと自分をごまかさずに考えていくプロセスこそ大切であろう。地べたに這いずり回りながら落穂を拾い、考えを一つ一つ積み上げていく手法である。不器用の勝利、という言葉がある。不器用だからと逃げずに、それを克服することを考えるところに初めて進歩がある。これからも「愚直一徹」で歩んでいきたいと思っている。
2.半導体との出会いと発想
トランジスタは、今ならだれでも知っているが、渡辺寧教授から言われて研究を始めた昭和24年(1949)ごろは、その原理さえ分かっていなかった。半導体の表面に二本の細い金属の針を立てると、一方の金属針に入れた電気信号が、他方の金属針に増幅されて出てくるーという事実が伝えられているだけであった。
私は、「ダイオードが分からなくて、もっと複雑なトランジスタが分かるわけがない」と考え、まずダイオードの研究にとりかかった。黄鉄鉱と方鉛鉱の表面に金属針を接触させて鉱石検波器を作り、それを使って整流特性の測定から始めた。
半導体にはn型とかp型と呼ばれるものがある。自由に動き回る電子が多数存在するのがn型半導体で、金とか白金といった安定した金属針をつけると整流特性がよくなるはず、また電子を受け入れる正孔が多いのがp型半導体で、侵されやすい金属であるアルミ、銅の金属針をつけると特性のいい整流器ができるはずーという当時の理論があった。これが研究を進める手がかりだった。
3.欧米絵画の質の高さに驚き
子どものころから絵は好きだった。小学校時代は、私の絵が選ばれて展覧会に出たり、教室に飾られたこともある。仙台二中では絵画部に属し油絵を描きたかった。しかし、父が油絵の道具を買ってくれず、水彩画で我慢した。とはいっても、水彩画もなかなか味があって捨てたものではない。
約3か月にわたって米国、 欧州の半導体関係の研究所と生産工場を見て歩いたが、私が初めての海外旅行で最も感銘を受けたのは絵であった。土、日曜日は研究所も工場も休みなので、美術館に行く。米国でも、西独、スイスでもフランスでも、どこの美術館に足を運んでも素晴らしい絵が、しかも数多くある。セザンヌ、ルノアール、マチス、ピカソ、ルオー、モネなど、日本で観た絵などモノの数ではない。世界一流の画家は、このように優れた絵画をたくさん描いているという事実に驚いた。そして思ったのである。
―ちょっと仕事したくらいで、世間から認められないからといって腐るようでは、いかにスケールが小さい人間であるか。
実は海外旅行の直前まで、思ったほど評価されない私は落ち込んだ気分でいたのである。それからは、何というか、“やる気”が出てきたのである。
氏は’18年10月21日に92歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は1985年(S60)4月で59歳、東北大学教授時代であった。 氏は戦時中に東北大学で電気工学を学び、米国でトランジスタが開発された情報を聞きつけて半導体研究を始めた。1950年に「Pinダイオード」という素子を開発したのを皮切りに次々と成果を出し「ミスター半導体」と呼ばれるようになった。また、50~60年代には半導体レーザーや光ファイバーによる光通信の原理を発明し、現代の情報通信社会を築く技術開発に大きく貢献したため「光通信の父」とも呼ばれている。
氏は工学部出身だから、「工学」とは「工」の上横の一本棒は自然現象を表し、下の一本棒は社会を示し、それをタテ棒で結びつけたのが「工」である。自然現象の原理原則を使って人と社会の幸福のために、仕事をしていくのが「工」であると先輩から教えられ、この精神を後輩に語り続けた。
氏は1961年ごろの特別研究生時代に半導体レーザーや光ファイバーを論文に書いたが、担任の渡辺教授は西澤の将来(周りの妬み)を考え、論文発表を遅らせた。西澤氏が27歳で助教授になり論文は解禁されたが、これらのテーマで論文を先に発表したショックレーなどが、ノーベル賞を受賞したのだった。このため、悔しさで眠れぬ夜が続いたと書いている。この後、氏は東北大学の伝統「実学重視」である特許や実用を優先し、著名な科学誌への論文をあまり出さなかった。
「履歴書」を読んでいて驚いたのは、妻は「企業再建の名人」と呼ばれた早川種三氏の娘さんで、氏が早川農場の牛乳を飲んでいた因縁とあった。早川種三氏も1980年(S55)12月にこの「履歴書」に登場している。
日本学士院より公開された肖像 | |
人物情報 | |
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生誕 | 1926年9月12日 大日本帝国・宮城県仙台市 |
死没 | 2018年10月21日(92歳没) 日本・宮城県仙台市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東北大学 |
両親 | 西澤恭助(東北大学名誉教授) |
学問 | |
研究分野 | 電子工学、通信工学 |
研究機関 | 上智大学特任教授 |
主な業績 | 半導体デバイス、半導体プロセス、光通信の開発 |
主な受賞歴 | 日本学士院賞(1974年) エジソンメダル(2000年) |
西澤 潤一(にしざわ じゅんいち、1926年9月12日 - 2018年10月21日[1])は、日本の工学者。東北大学名誉教授。日本学士院会員。 専門は電子工学・通信工学で、半導体デバイス、半導体プロセス、光通信の開発で独創的な業績を挙げた。半導体関連の特許保有件数は世界最多である[2]。
東北大学総長、岩手県立大学学長、首都大学東京学長、上智大学特任教授を歴任。