掲載時肩書 | 詩人 |
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掲載期間 | 1962/07/27〜1962/08/20 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1892/01/15 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早大予、東大国文専科、ソルボンヌ大学 |
入社 | 文筆、天麩羅や |
配偶者 | 小川晴子 |
主な仕事 | 早大講師、児童文学「赤い鳥」、渡仏、仏詩人と交友、早大教授、作詞家、欧米旅、著作権改革 |
恩師・恩人 | 吉江喬江 |
人脈 | 日夏耿之介、鈴木三重吉、北原白秋、三木露風、高村光太郎、山田耕筰、中山晋平(コンビ)、万城目正、古関裕而 |
備考 | 隣・尾崎行雄 |
1892年〈明治25年〉1月15日 – 1970年〈昭和45年〉8月12日)は東京生まれ。詩人、作詞家、仏文学者。早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919年(大正8年)に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早稲田大学文学部文学科教授。戦時中は日本文学報国会詩部会幹事長として戦争協力を行い、軍人援護強化運動として「起て一億」の作詞を担当した。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。
1.早大と東大に同時入学(明治44年1911)
早大文科へ入り直したのは20歳の春だった。ぼくは同時に受験して、東大の国文学部の選科生となった。当時、そんな制度があった。この選科を無事3年修了すると、今度は逆に高等学校の卒業試験を受ける。そうすれば東大の学士様になれたのだ。ぼくは学士にはなりたくなかったから、覗いてみたかったのだ。
そんなわけで、ぼくは東大の選科と早大の文学部予科との双方に通うことになった。当時早大の文科は思い切った改革をやっていて、クラスをAとBに分けた。Bクラスに入る奴はまずもって教員免状放棄届というものを事務所に出すのだ。卒業しても教員免状はもらえない。その代わり出欠はかなり自由で、教育学なんて面倒くさいものはやらなくて済む。我らはそうした背水の陣を敷いて文学に進む学徒だった。
東大で聴いた講義では、藤村作教授の、馬琴と京伝の生涯と作品の比較研究が一番面白かった。早大では島村抱月が、やはり文学概論をやっていたが、当時の松井須磨子との恋愛中で、講義に熱意を欠いていた。坪内逍遥は相変わらずシェークスピア物の「御意に召すまま」を講じていた。
2.ビクターからコロンビアに移る
昭和10年(1935)の夏、ぼくはビクター会社からコロンビア会社へと移った。想えばここで「東京行進曲」を振り出しに「女給の歌」「サムライ・ニッポン」「涙の渡り鳥」「天国に結ぶ恋」「大島おけさ」「パリの屋根の下」などいろいろな歌曲を中山晋平などいろいろな作曲家と結んで生んだものだった。
移り住んだコロンビア会社では、古賀政男君との「サーカスの歌」、江口夜詩君との「十九の春」、13年には映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」「悲しき子守歌」らは万城目正君と、同じく大ヒットした「支那の夜」は竹岡信幸君とのコンビだった。付け加えると、この「支那の夜」は今度の敗戦で、アメリカに分捕られ、「味の素」などのトレード・マークと共に敵産となった唯一の唄である。この唄は、愛好するアメリカ兵たちの口から、今では全世界に普及している。終戦後20年たっても、著作権料を戻してくれないのだ。
「若い血潮の予科練の・・」の歌詞は、霞ケ浦航空隊に行ったとき、隊長が「士気を鼓舞する良い歌ができないのです」と頼まれた。隊長の後ろの壁に予科連生募集のビラが掛かっていた。その時、即座に僕の胸に浮かんできたもので、それを古関裕而君とコンビで作ったものである。
3.コンビの中山晋平
「昔恋しい銀座の柳」の「東京行進曲」以来の中山晋平は、情に篤く、義理堅く、己を詰めて他人に施すなど、まったく出来た人物だった。15歳で、信州小諸の商店の小僧となり、次いで島村抱月の玄関番を七年も勤め、苦学して音楽学校を出たというだけに、ぼくのようなお坊ちゃんは、仕事をしながら処世上教えられることが多かった。例えば、地方民謡をつくりに出かけて謝礼も貰うと、代表して受取っても絶対封を切らず、帰途の汽車の中で初めてそれを開き、眼前で折半するというような気の届いた人であった。
晋平は、新民謡に「はやし言葉」をつけるのが実にうまかった。たとえば「東京音頭」の「ヤーットナ、ソレ、ヨイヨイヨイ」とか、飯坂小唄の「寄らんしょ、来らんしょ、回らんしょ、サカ、サカ、サカ、飯坂へ」などである。ただし、ひとりでその言葉をつけるのではない。作詞者を立ち合いに、相談しいしいつけるのである。
西條 八十 (さいじょう やそ) | |
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西條八十 | |
ペンネーム | 柳水巴 |
誕生 | 西條 八十 1892年1月15日 日本 東京府東京市牛込区 (現:東京都新宿区) |
死没 | 1970年8月12日(78歳没) 日本 東京都世田谷区成城 |
墓地 | 東京都立八柱霊園 |
職業 | 詩人、フランス文学者、作詞家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 早稲田大学文学部英文科 |
活動期間 | 1919年 - 1970年 |
ジャンル | 抒情詩、童謡、歌謡曲 |
デビュー作 | 『砂金』(第一詩集) |
子供 | 西條八束、三井ふたばこ |
西條 八十(さいじょう やそ、新字体:西条、1892年〈明治25年〉1月15日 - 1970年〈昭和45年〉8月12日)は、日本の詩人、作詞家、仏文学者、小説家。早稲田大学文学部文学科元教授。
長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。孫の西條八兄はエレキギター製作者。
自費出版した処女詩集『砂金』(1919年)が好評を博し、抒情性に富んだ清新な詩風で、象徴詩人としての地位を確立。童謡、歌謡曲の作詞も多く手がけた。作品に詩集『一握の玻璃』(1951年)など。