西川政一 にしかわ まさかず

商業

掲載時肩書日商岩井相談役
掲載期間1978/06/30〜1978/07/28
出身地兵庫県
生年月日1899/09/05
掲載回数29 回
執筆時年齢79 歳
最終学歴
神戸大学
学歴その他神港商業
入社鈴木商店
配偶者須原 >西川、永井幸太郎・仲人
主な仕事鈴木商店:S2.4.2(倒産、翌日結婚予定)、日商、満州、NY支店、日本バレーボール協会、s43日商岩井、日墨協会
恩師・恩人岳父:西川文蔵、落合豊一
人脈芦田均(福知山)木下茂(産商)田部文一郎(引揚船)高畑誠一、島津久大、湯川博士ご夫妻、原吉平
備考天理教、得意:アイアン1
論評

明治32(1899)年9月5日~昭和61(1986)年6月4日、兵庫県生まれ。昭和期の実業家 。大正13年鈴木商店に入社。その解散後、昭和3年日商の創設に参加、33年社長に就任。43年岩井産業との合併に成功して日商岩井社長となり、44年会長、47年相談役に就任。日本バレーボール協会会長も務めた。

1.鈴木商店の破産は私の結婚式前日
昭和2年〈1927〉4月2日、この日は鈴木商店の金子直吉氏ら幹部の必死の打開策も効なく、この日に至って鈴木は万策尽き、遂に支払い停止、あるいは不渡り処分もやむなしの事態に陥った。何という運命のいたずらか、私は実は鈴木商店の最重要日の翌日(日曜)、神戸のトーア・ホテルで故鈴木文蔵の二女明子との結婚披露を予定し、永井幸太郎夫妻を煩わして仲人役をお願いし、友人親戚などを招いて小宴を開催することにしていたのである。
 そのとき、翌日自分の結婚披露も大事だが、私にしてみれば主家鈴木商店の支払い停止はもっと重大事件である。仲人役の永井氏からも東京に足止めで、どうしても帰神できぬとの電話、私はとりあえず招待先へ連絡し、披露宴の中止を伝えた。かくして私たち夫婦は結婚式も新婚旅行もやらないままの今日だ。

2.日米開戦で収容所に(NY駐在時)
昭和16年12月7日、日米開戦と同時に私も多くの日本人と共に抑留された。ニューヨーク港外エリス島移民宿泊所に収容されたのである。実はその日の朝、私は日本郵船の渡辺支店長とともに汽車でワシントンに行き、野村、来栖両大使のほか、若杉公使など関係各位にお別れの挨拶に行った。その時すでに真珠湾攻撃が始まろうとしていたわけだが、私たちにしてみれば知らぬが仏、次の引き揚げ船で帰国する予定だったのだ。
 ニューヨークに帰着したのが当日午後6時ごろ、渡辺氏とは同じホテルでFBIに捕まってしまった。そしてダウンタウンのUS・コートハウスに囚人用自動車で連行され、指紋、顔写真をとられたうえ、「会社やホテルに残した金銭物品はいかようにされても苦しからず」との誓約書にサインさせられ、翌朝十把一絡げにエリス島に送られた。エリス島には翌17年6月12日にニューヨークを出港した第一次日米交換船のグリップホルム号に乗船するまでの約187日間、収容されていた。

3.東京五輪で女子バレー優勝の感激(バレーボール協会会長時)
昭和39年(1964)10月23日。私はこの日の感激を一生忘れ得ないであろう。日本の女子バレーボール・チームはソ連の猛烈な追撃を振り切って遂に金メダルの栄冠を勝ち得たのである。バレーボール関係者の多年の宿望であった世界完全制覇の夢が現実となって実現した。
 私は異例ではあったがIOC委員の先導役として、表彰式に一役を務めた。まず、日本チームのキャップテン河西昌枝君の前に立った時、私の感動は本当にその極に達したと言って過言ではない。彼女の両眼からはとめどなく涙が、否、彼女だけではない、12人の選手たちも例外なくうれし涙にくれている。何という晴れやかで美しい涙であろう。この”東洋の魔女“たちの感涙を見て、私もまた胸が熱くなり涙が出た。
 その涙顔で二位のソ連チームのキャップテン、ルイジョア君の前へ進んだ時、私は息をのむ思いだった。何という悲壮な顔!ルイジョワ君ばかりではない、全員が唇をかみしめて怒髪天をつく様相のものすごく、こちらの方が「魔女」に見えたものだ。私の頭は混乱した。混乱した頭を整理する間もなく、三位のポーランド・チームへ歩を進めると、こはいかに!みんながこれ以上の喜びはないという笑顔いっぱいに浮かべているではないか。涙と怒りを笑い・・・。私の頭はますます混乱して、不覚にもポーランドのキャプテンへ進む方向を間違ってしまったほどであった。

4.日商岩井の発足
日商が創立30周年を迎えた昭和33年(1958)、落合豊一社長の急逝により、私ははからずも後継社長を担うことになった。高度成長期を生き抜くためには、スケールメリットを追求するのも企業の大きな経営戦略であった。日商と岩井産業とが合併し「日商岩井」として発足したのは、昭和43年10月1日である。時あたかも、鈴木の後継会社として昭和3年にわずかに39人の同志とともに百万円の資本金で呱々の声をあげた日商の40周年を迎えた年であった。
 岩井産業は創業百年を数える関西の伝統ある商社であったが、近年、サンウェーブ、平松商店等取引関係の倒産の余波を受けて、必ずしも経済の安定を期しえなかった状況にあり、主力銀行の三和銀行より私に合併の可能性について意向打診があったのだった。

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