掲載時肩書 | 歌手 |
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掲載期間 | 1979/12/07〜1979/12/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1911/04/08 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | |
入社 | ビクター |
配偶者 | NHK娘 |
主な仕事 | 芸大首席、在学中にレコード化 (停学)、テイチク、コロンビア、長崎の鐘、NHK、のど自慢審査、紅白歌合戦指揮 |
恩師・恩人 | 江沢清太郎、古賀政男 |
人脈 | 岡本太郎(同期ビリ)、長門美保、東海林太郎、森岩雄、井深大、佐藤惣之助、永井博士、ひばり |
備考 | 発声法詳述 |
1911年(明治44年)4月8日 – 1993年(平成5年)8月21日)は東京生まれ。歌手・声楽家・作曲家・指揮者。東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)を首席で卒業。 東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論と、ハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調高い歌声は「楷書の歌」と評された
1.慶応幼稚舎の仲間・岡本太郎君
このクラスメートには現在洋画家として活躍している岡本太郎、文学者の野口富士夫、代議士の山本条太郎氏の令息武太郎、伊藤博文公の孫の博臣などの諸君がいたが、普通部へ行ってからはクラスが別になった。普通部生活は楽しく終了したが、音楽以外の勉強はあまりやらなかった私の卒業成績はクラス52人中、51番目だったことを告白する。そしてしんがりの52番目は、天才画家の岡本太郎君であった。
太郎君も私も普通部在学中からかねがね上野(現東京芸大)を志望していたので、普通部卒業と同時に受験、岡本君とともに合格した。もちろん私は音楽学校であり、岡本君は美術学校である。
2.抑留3年10か月
マレー、スマトラ、ジャワなど次々と移動させられながら、レンパン島での生活を3か月あまり続けているうち待望の帰国命令がでた。思えば3年10か月の戦地生活だったが、よくもカスリ傷一つ負わずにいられたものだと感無量であった。迎えの航空母艦葛城がもう二度と来ないであろうレンパン島を出港すると、私は艦内の作戦指令室の拡声器の前から連日アコーデオンで軍歌、国民歌謡、歌謡曲、ジャワ民謡などを歌いまくった。そのメロディは全艦に伝わり、全員に喜ばれた。
ある日、輸送指揮官室の机の上に一枚の楽譜が置いてあった。手に取ると「リンゴの唄」と書いてある。
赤いリンゴに くちびるよせて だまって見ている 青い空 リンゴはなんにも
いわないけれど リンゴの気持ちは よくわかる リンゴ可愛や 可愛やリンゴ
サトウ・ハチロー作詞、万城目正作曲とある。 思わずハミングする。明るくて楽しい歌だ。そしてこの歌がいま日本で流行しているのだなと思った。
3.長崎の鐘と永井隆博士
私が歌った「長崎の鐘」(作詞:サトウ・ハチロー、作曲:古関裕而)が大当たりしている最中に私は思いがけぬ病魔に襲われ、3週間意識不明になった。病名は肝臓膿瘍ですぐさま手術が行われたが難病・奇病であった。家内が着物や装身具などを売り払い高価なペニシリンやストマイを調達してくれ、献身的な看護もあって2か月後に退院できた。
「長崎の鐘」はラジオを通じて当然永井博士(「長崎の鐘」原作者)のお耳にも入っていて、伝え聞くところによれば博士は私に会いたがっているという。一方の私も一度はお目にかかりたいと思っており、長崎へ巡業したある日、博士の自宅へお伺いした。白血病の博士はベッドに横たわったまま起き上がれないほどの症状だったが、終始にこやかに応対してくださった。失礼を顧みずその場でアコーデオンを弾いて歌をお聞かせした。博士は目を細めてお聞きくださった後、涙を浮かべながら「ありがとう、ありがとう」と何度もお礼を言ってくださった。
4.これから期待する歌手
最近の人では、女性で倍賞千恵子さん、由紀さおりさん、芹沢洋子さん、男性では岡本敦郎君、近江俊郎君、アイ・ジョージ君の歌い方が好きだ。若いところでは尾崎紀世彦君、布施明君もいいと思う。ただクルーン(おさえた低い声でささやき、つぶやくように、しゃべるように歌うという唱法)するだけでなくシングもできる両刀使いだからだ。
藤山 一郎 Ichirō FUJIYAMA | |
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藤山 一郎 | |
基本情報 | |
出生名 | 増永 丈夫 |
別名 | ピンちゃん |
生誕 | 1911年4月8日 |
出身地 | 日本 東京府東京市日本橋区蛎殻町 (現・東京都中央区日本橋蛎殻町) |
死没 | 1993年8月21日(82歳没) |
学歴 | 東京音楽学校 |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1921年 - 1993年 |
レーベル |
藤山 一郎(ふじやま いちろう、1911年〈明治44年〉4月8日 - 1993年〈平成5年〉8月21日)は、日本の歌手、声楽家、作曲家、編曲家、指揮者。本名︰増永 丈夫(ますなが たけお)。位階は従四位。本名ではクラシック音楽の声楽家・バリトン歌手として活躍した。
東京府東京市日本橋区蛎殻町(現東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)を首席で卒業。東京音楽学校で培った正統な声楽技術、歌唱法、音楽理論と、ハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』、『丘を越えて』・『東京ラプソディ』、『青い山脈』、『長崎の鐘』など、数多くのヒット曲を世に送った。理論や楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ[1]、その格調高い歌声は「楷書の歌」と評された[2]。1992年(平成4年)、スポーツ選手以外では初めて国民栄誉賞を生前に受賞した。