掲載時肩書 | 陶芸家 |
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掲載期間 | 1976/05/01〜1976/05/31 |
出身地 | 岐阜県 |
生年月日 | 1894/03/17 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | |
入社 | 輸出業小僧 |
配偶者 | 叔父の娘 |
主な仕事 | うどん屋台、上絵磁器製作、画家、陶磁器工場、 志野古窯跡発見(母方先祖) |
恩師・恩人 | トルエドソン夫人 |
人脈 | 宮永東山、北大路魯山人、小山富士夫、 加藤唐九郎、わかもと製薬夫妻、大村正夫、 |
備考 | 母方は陶祖 |
1894年3月21日 – 1985年8月11日)は岐阜県多治見市生まれ。昭和を代表する美濃焼の陶芸家。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した可児市久々利にある牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねた。終には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立した。
1.北大路魯山人との付き合い
魯山人の父は、母が彼を身ごもっている間に、割腹して果てた。胎内の子を自分のではないように疑い、悩み苦しんだ挙句の挙であったとか。魯山人は、生まれると、母に捨てられるようにして他人の手に転々として渡り、育った。その境遇のせいか、肉親の情を知らないようである。養家先の父母の機嫌を取り結ぶべく、手料理に心がけた。彼の食べ物への関心は、その頃に始まり、料理に関しては一家言持つに至っている。また美術も書、篆刻から入って、焼き物、絵画に広い目を持つ。そういう能力を星岡茶寮に生かした。料理はもとより、食器の選定、建物のありよう、従業員のしつけまで、彼が指図した。
しかし、魯山人の傲慢な人となりは、広く知られている。随分と威張った口のききようをする。実は空威張りである。根は気が小さい。それを隠して、逆に人を見下し、ののしったりする。だからみんな長続きしない。
2.古志野の筍絵陶片を発見・・昭和5年(1930)4月12日
古志野は瀬戸で焼いたというのが、その頃の通説である。誰もが、その説を怪しんでいない。しかし、このハマコロは赤い土である。瀬戸では赤い道具土など用いない。瀬戸のハマコロは白い。赤い土である限り、瀬戸ではないらしい。私は、この夜、床に入っても寝付けない。どこで焼いたのか。疑問が念頭を去らないのである。私はとりとめなく考え、陶祖であった母方の祖母が亡くなった際、仏事のあと、叔父に連れられて山越えし、大平へ行き、窯跡を探り、帰りがけ、山道で織部の破片を拾ったことを思い出した。あるいは、あの辺かも・・・そう想像すると、何やらじっとしていられない気持ちになった。翌日、直ちに多治見に行く。
多治見で一泊。翌朝、従兄の富田繁昌と一緒に高田を経、絵図ケ峰峠を越えて歩くこと10キロ余、大平に到着する。前に掘った窯を二人で再び掘り返す。天目やアメ釉ばかりで、織部さえ見つからない。日も斜めに傾いてくる。あきらめて帰ろうか、と思ったが、いったん付近の家に寄った。
大平に5軒家がある。そこで別窯を訊ねると、さらに2キロほど歩くと大萱にあるという。そこに行く。案内人と連れ立って牟田洞の谷あいに入れば、杉、雑木の林である。そのところを葉をかき分けて掘る。天目、鉢、円五郎(サヤ)などの破片が出る。始めて間もない、ほの白いものを掘り出す。取り上げてみた。
志野である。手のひらに収まるほどの小片だが、ゆずはだで、火色の小さな筍が一本描いてある。なんと、一昨日丸文旅館で魯山人と眺めた筍絵筒茶碗と同じ手ではないか。あれの筍2本のうち、小さい一本だ。体中が、かっと熱くなる。えらいことになったぞ。口には出さぬが、心の中では大声で叫んでいた。
3.妻への追悼
貧乏所帯が20年続いたが、実際の苦労は家内にかけた。だから当の私は存外生活の苦労を知っていない。家内には、子供を寝かしつけてから知人宅に借財に走る夜が、どれだけあったことか。家内は私に告げなかったが、娘から聞かされた。この隠れた労には、頭が下がる。
家内は昭和43年(1968)、71歳で亡くなった。葬式の日は、全国のしかるべき禅寺から、30人余りの僧侶が参じてくれた。この僧侶は、いずれも若い修業時代、雲水姿で大畑の家に寄り、家内のもてなしを受けた方々である。葬儀の日に私をよく知る料亭主人松岡一男さんが、次の追悼詩を持参してくれた。
「私の苦しみは楽しみだった。志野というものをつくるための・・、だがお前は違う。わしの我がまま生活を許してくれた。そしてじっと見守ってくれた。だがわしにはお前の目が一番怖かった。深い苦しみから生まれてくる作品をじっと見る目が怖い。わしが今日あるのもお前のおかげだ・・」。これを骨壺に入れた。