掲載時肩書 | キッコーマン醤油社長 |
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掲載期間 | 1971/04/21〜1971/05/17 |
出身地 | 千葉県旭市 |
生年月日 | 1899/08/05 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 高商予科 |
入社 | 野田醤油 |
配偶者 | 飯田->茂木佐平治妹 |
主な仕事 | 野田醤油争議、キッコーマン社名変更、キッコー食品、誠進製薬、マンズワイン、日本醤油研究所、利根コカコーラ |
恩師・恩人 | 上田貞二郎教授、先代茂木啓三郎 |
人脈 | 上野喜左衛門、松岡駒吉、西尾末広、茂木佐平治、正田貞一郎、佐藤義詮、舘野正淳、鈴木三郎助(味の素) |
備考 | 祖父:村長、祖母:千葉周作、平手造酒、座右の銘「一隅を照らす」 |
1899年8月5日 – 1993年8月16日)は千葉県生まれ。実業家。キッコーマン中興の祖。同社社長として、個人醸造家の集合体を近代経営化し業界トップ化した。1970年からは千葉テレビ初代社長を兼務。1972年にはアメリカ合衆国にしょうゆ工場を建設。醤油事業を海外で成功させ、業容を拡大した。社団法人如水会理事長、千葉県経営者協会名誉会長、千葉県教育委員会委員等も歴任。
1.野田醤油と一族七家の合同
千葉県野田と醤油は切っても切れない関係になっているが、それも野田の地が醤油生産にとって極めて恵まれたところだからである。すなわち、江戸と利根川、さらにはそれをつなぐ運河、この三角地帯にあって舟の便が極めてよく、しかも原料である大豆は茨城、小麦は千葉、茨城、埼玉が主産地であるうえ、塩は行徳、浦安に大塩田がある。これらの地方と交通が非常に良い。その上、製品である醤油の消費地として文化が進み、購買力も旺盛な江戸、および江戸の繁盛と並んで発達した栃木、群馬方面の養蚕地、機業地が控え、これらの地方への交通もいたって便利であったからだ。
明治となって日本の国力が急速に膨張し人口が急増するにつれて、醬油の消費が急激に伸び、野田の醤油業も大いに発展した。主として茂木一族である業者の数も、ある時は20軒を越え、従って競争も激しくなり、一族間の平和が乱される危険さえ生じてきたようである。そこで一族の個人企業を合同しようとなった。この企業合同は幾多の曲折を経て、一族七家で大正6年(1917)10月19日に決定、調印された。
2.米国視察で得たもの
最初に渡米したのは昭和31年(1956)5月で、日本生産性本部の「ヒューマン・リレーション視察」だった。
(1) ジョンソン&ジョンソン社の経営方針は、「企業は利益をあげなければならないが、その配分の順序が大切である」とし、順序として「第一に(消費者へ)=良い品質のものを、安く提供する。第二は(働く者たちへ)=従業員の生活を向上させる。第三は(経営者へ)。第四は(地域社会)奉仕せよ。そして第五が(株主へ)である」と、社内報に書いてあり、この経営姿勢に大きな感銘を受けた。
(2) マサチューセッツ工科大学のシェル教授がわれわれに引見してくれ、次のような内容を話してくれた。「あなた方のような日本の視察チームがたくさん来る。しかし、その人たちの多くは米国の経済が繁栄しているその”花“だけを見て帰る。ところが、この繁栄はまず種をまいて根を張らし、幹を太くして、枝を繁らせ葉をつややかにして、その結果咲いている”花“だから、それだけを見て帰ってはダメだ。花だけ摘んでいって、生け花をしても意味はなさない。根を見て帰りなさい。根を見て帰るということは、経営について、ヒューマン・リレーションで言っている人間幸福の共通の理念がなければならぬ」と。
3.醤油成分(アミノ酸)の分解と醸造の違い
終戦当時、天然醸造醤油の醸造期間は1年ないし1年半、歩留まりは60%前後であった。歩留まりというのは使用原料の蛋白分のうち、醬油に残る分の割合である。ところが塩酸分解による、いわゆるアミノ酸醤油は、わずかに1週間、歩留まりも80%と高い。品質には格段の相違があるのだが、GHQは歩留まりだけを考え「わざわざ米国から持ってくる貴重な原料をなにごとだ」というわけである。GHQで経済科学局醤油関係担当官をしていたアップルトン女史は「醤油は全部、アミノ酸醤油にすべし」と内示してきた。
昭和22年(1947)、23年ごろのことだが、醤油業界としては「国難来る」というほどの大事である。そのころ、私の会社の舘野正淳(現中央研究所顧問)という技術者が、新式二号という画期的な醤油の醸造法を発明した。これは天然醸造とアミノ酸醤油の塩酸分解法の長所を兼ね備えたもので、脱脂大豆をいったん弱塩酸で処理し、それに麹を加え、約2か月間熟成させるという方法である。これだと品質が天然醸造とほとんど違わないだけでなく、歩留まりも80%になる。
昭和23年7月23日、日本醤油協会の会議で、私が新式二号醤油のことを報告すると、会長の正田文右衛門さんが「ぜひ業界に公開して欲しい」要望され、「お役に立てば結構です」と公開したのだった。