掲載時肩書 | 元外務大臣 |
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掲載期間 | 1957/11/19〜1957/12/10 |
出身地 | 新潟県 |
生年月日 | 1874/01/24 |
掲載回数 | 22 回 |
執筆時年齢 | 84 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 第二高等学校 |
入社 | 外務省 |
配偶者 | 犬養木堂娘 |
主な仕事 | アモイ、ロンドン、アジア局長、欧米局長、溥儀皇帝匿う、駐仏大使、国際連盟理事で満州事変板挟み、5・15事件、枢密顧問官 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 小泉八雲先生、幣原外相、松岡洋右、小林一三、松本俊一、内田信也、蔣介石総統 |
備考 | 代々庄屋、明治天皇御大葬担当、その13日夜、乃木自刃 |
1874年〈明治7年〉1月24日 – 1965年〈昭和40年〉1月5日)は新潟県生まれ。外交官、政治家。大日本帝国きっての亜細亜通の外交官として知られ、日ソ基本条約締結による日ソ国交回復等に関わる。義父は犬養毅であり、犬養内閣においては外務大臣を務めた。第二次世界大戦終結後に公職追放を受けるが、解除後は1952年から3年間駐中華民国大使を務め、辞任後も自由アジア擁護連盟代表、自由アジア協会長として台湾擁護に奔走した。妻の操は内閣総理大臣等を務めた犬養毅の長女であり、犬養内閣では外務大臣に起用された。外務事務次官や駐アメリカ合衆国特命全権大使を務めた井口貞夫は娘婿である。
1.旅順港の激戦地
明治37年(1904)12月に帰国を命ぜられて満州牛荘から旅順に向かった。旅順の要塞戦は激戦だった。乃木さんの二人の息子が戦死したほか、乃木さんの第三軍の犠牲は非常に大きかった。そのため一時は乃木さんに対する非難が起こったくらいである。しかし乃木さんの人格が偉大だったから非難も大したものにならなかった。もちろん、ステッセルの率いるロシア軍も苦戦した。ロシア軍で最も力戦したコンドラチエンコ少将は偉い軍人だったそうだが、戦死した。旅順港はロシアの軍艦があっちにもこっちにも半分沈んでいたり帆柱だけが浮いていたりというありさまで、この要塞戦がいかにすさまじかったか、私は目の当たりに想像することができた。大連から私は鎌倉丸で長崎に着いた。この船にはロシア司令官ステッセル将軍も帰国のため、乗っていた。
2.明治天皇御大葬を担当する
私は明治天皇御大葬の事務官に任命された。明治天皇崩御は各国に非常に衝動を与えた。9月13日御大葬には各国の偉い人が特派されて参列した。英国からは英国皇帝の従弟アーサー・オブ・コンノート殿下、米国からは国務長官ノックス、独逸からはブリンツ・ハインリッヒ(カイザーの弟)、仏国からは元外務大臣ビションといった人々である。
日本政府は接待員ことに委員長の選任については非常に意を用いた。たとえばコンノート殿下については接待委員長の乃木大将で、接待員として海軍から阪本俊篤海軍中将と私がでた。御大葬は13日夜すんだ。私ら接待員は御大葬が済んでから自宅に帰り、翌朝伏見宮邸に出頭したところ、乃木委員長自殺と夫人も殉死された報道を聞いてびっくりしたのだった。
この乃木希(まれ)典(すけ)大将は、明治天皇に対し、日露戦争で多くの死傷者を出したことを、自(じ)刃(じん)をもって、お詫(わ)びしようとしていた(日露戦争では二人の息子も戦死している)。その時、明治天皇は乃木希典大将を思いとどまらせたという伏線があった。乃木大将は天皇崩御の知らせを聞き、ずっと自害を考えていたが、御大葬までは「軍人らしく責任を全うしよう」と覚悟したものと思われる。現代では、想像もつかない思いだが、吉澤氏はこの事実を時代の記録として後世に残したかったのだろう。
また、乃木大将の遺書は岩田宙三(元法相)が受け取り、「私の履歴書」1957年8月執筆で紹介している。
3.五・一五事件(岳父死す)
昭和7年(1932)5月15日は日曜日で好天気だった。私は久しぶりにゴルフに出かけた。夕方官舎に帰ってきた時、家族のものが「向かい側総理官邸に何か出来事があったようだ」というから、私は早速行ってみた。官邸は警察などがあわただしく騒いでおり、応接間に入ると犬養総理は頭部を負傷していて、頭に手を当てていた。聞けば海軍将校が乱入して、ピストルを射撃したということだった。
私は驚いて海軍大臣に電話をかけてその旨を伝えると、大角海相も驚き「さっそく対応処置をとる」といった。騒ぎは大きくなり、全閣僚、政友会の人たちが集まり一時は戒厳令のうわさまで飛んだが、その晩犬養総理は負傷のため78歳を最期として世を去った。この犬養総理の死・・・つまり五・一五事件に絡んでいろいろな流言が伝えられ、また事実幾つもの秘話はあるが、ここではそれについて述べるのは避ける。
Wikipediaによると、海軍青年将校率いる第一組が5月15日と決行日とされたのは、陸軍士官候補生が満州視察旅行から戻るのが前日の14日であり、15日は日曜日のため休暇外出することが出来るし、また来日中のチャールズ・チャップリン歓迎会が首相官邸で行われる予定のため、首相が在邸するはずであるとの理由であった、とある。それにしても吉澤氏は岳父・犬養総理の死を身近に見て、総理官邸の全閣僚、政友会の重鎮たちの混乱ぶりを書き記している。本当はここに書かれている「事実幾つもの秘話」は身内しか知らない秘話ですから紹介したかったのでしょうが、紙面の都合で割愛したのは惜しまれます。