花柳章太郎 はなやぎ しょうたろう

映画演劇

掲載時肩書俳優
掲載期間1962/06/08〜1962/06/30
出身地東京都
生年月日1894/05/24
掲載回数23 回
執筆時年齢68 歳
最終学歴
中学校
学歴その他
入社
配偶者記載なし
主な仕事欧州の失敗談、歌舞伎女形賛成派、 「女形」と「女優」「歌舞伎と新派」
恩師・恩人喜多村緑郎
人脈川口松太郎、伊藤深水(竹馬) 、小山内薫、久保田万太郎、水谷八重子
備考俳句日記
論評

1894年(明治27年)5月24日 – 1965年(昭和40年)1月6日、東京日本橋に生まれ。戦前から戦後にかけて活躍した新派を代表する女形役者。長男(養子)の花柳喜章、二男の花柳武始はともに俳優。小学校在学中の1908年(明治41年)新派の喜多村緑郎の弟子となり、本郷座『雪子夫人』の酒屋の小僧で初舞台。1915年(大正4年)、泉鏡花作『日本橋』の主役・お千世を勝ち取り、その美貌が話題となる。これが出世作となって、一躍新派の人気女形となる。俳句日記が有名。

1)兵役忌避の女形
明治6年のころ、大阪で徴兵検査があったとき、一人のなよなよと絹ものずくめの若い男に係り官が裸になるように命じると、彼は「姫ごぜのあられもない、殿御の前で裸になれとは胴欲な、おおいや・・」妙な身振りをして係り官を驚かしたと「女形今昔論」の著者尾沢良三氏が書いている。

2)女優と女形の違い
 女優は舞台の上で、いや観客の前で乳首を出すことは恥ずかしがる。また、女性なるがゆえに、お政の役としてではなく、女優その人の女の生地が出てしまう。つまり芸ではなくなってしまうわけだ。本来ならば女形が観客の前で乳首を出すことの方がずいぶん不自然なはずだが、芝居としてはかえって自然であり、女優は女であるための本能のためらいが、芝居としての間を外してしまうことになる。

3)芸と浮気
 ある映画女優と熱烈な恋愛をした。ほとんど同棲に近い毎日の生活、芝居から彼女のもとへ、一ヶ月の大半は家に帰らなかった。そうした生活が2年ほど続いた。
(女房はおどり、彼女「女優」は清元の名人だった。その両方から新作劇の役を演ずることになったので、両方から教わる)中略
 二人の間にはいって苦しんだ末、最後の仕上げの夜、私は女房に「彼女のところへ行って踊りを浚っ(さらっ)てくる。清元を知っているからそうする・・」そんな言葉を残して飛び出したが、そのときの女房の蒼白なこわばった一瞬の表情が焼き付くように目に残り、水を浴びたような心の寒さをおぼえた。
 一方、彼女は三味線を前にして私を待っていた。徹夜けいこをして、どうやら舞台にかける自信はついたが、このときの二人の女性の無言の鞭に私はきびしくはげまされたのだった。

4)芸の工夫
惚れていない男に惚れているように見せる場合、直感的に見物に「あまり惚れていませんよ」ということがわかるようになっている。真実惚れているときは男の片左の下に手を置く。男の右手は自由になっていて抱かれようと手を握られようと思うままに自分の身体を任せられるようになっている。これなど実際の恋愛実行中に会得した実績ともいえるだろう。
―役者ばか人情馬鹿の柳かなー

1947年
お千世
泉鏡花作『日本橋』の主役・お千世は花柳の出世作となり、また彼生涯の当たり役の一つともなった。1938年(昭和13年)。

花柳 章太郎(はなやぎ しょうたろう、本名:青山章太郎、1894年明治27年〉5月24日 - 1965年昭和40年〉1月6日)は、戦前から戦後にかけて活躍した新派を代表する女形役者。日本芸術院会員。文化功労者人間国宝。俳名は、章魚、柳花洞[1]

長男(養子)の花柳喜章、二男の花柳武始はともに俳優[2]

  1. ^ 『新撰 芸能人物事典 明治〜平成』
  2. ^ 『新撰 芸能人物事典 明治〜平成』
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