掲載時肩書 | 日本ゴルフ協会会長 |
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掲載期間 | 1990/03/01〜1990/03/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1912/07/17 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 学習院 |
入社 | 近衛秘書 |
配偶者 | 近衛娘 |
主な仕事 | 能、論語、古今和歌集、近衛首相>松岡外相起用、高松宮掛かり、細川日記、終戦情報、十条製紙、文人(書画、骨董、生花等)、ゴルフ協会 |
恩師・恩人 | 狩野直喜教授 |
人脈 | 護煕(首相)、次男・忠煇(近衛長男文隆に養子:三笠宮甯子結婚)、里見弴、宮様(高松、竹田、北白川、朝香)、鳩山秀夫、末広厳太郎、石坂泰三、松田権六、 |
備考 | 17代目当主、娘(表千家に |
1912年(明治45年)7月17日 – 2005年(平成17年)10月3日、満93歳没)は東京生まれ。旧肥後熊本藩主細川家の第17代当主。1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣で首相秘書官に就任する。1943年(昭和18年)、昭和天皇の弟宮高松宮宣仁親王の御用掛となり宮中グループを中心に各方面の有識者から情報や意見を収集し、海軍グループで同郷出身の高木惣吉海軍少将に協力して東條英機暗殺未遂事件や終戦工作の一翼を担い、戦時中の動静を「細川日記」として戦後発表している。戦後は政治から一線を引き、細川家当主として、伝来の書画茶道具などの工芸美術品を管理するため設立された財団法人永青文庫の理事長に就任。神社本庁統理、日本工芸会会長、日本ゴルフ協会会長なども務めた。1996年から1998年まで弘世現(任期:1983年-1996年)の後任として伊勢神宮崇敬会第5代会長。また、美術愛好家として著書を多く出している。
1.永青文庫
東京文京区にあるわが家の隣に細川家の家宝を所蔵する「永青文庫」(財団法人)がある。約700年にわたって歴代が蒐集してきた武器・武具、父護立が集めた古書画、彫刻、陶器、近代書画など美術品が約1万5千点、古文書類は約十万点にのぼる。これらの保存・研究を目的に昭和25年(1950)、財団法人が設立された。父が永青文庫と命名したが、私の後妻の父である松井明之(細川家の筆頭家老)が、「生きている間に財団にしておきたい」として、私も相当無理してやっと作ることができた。
細川家に伝わる手紙、資料は相当な数である。織田信長の直筆の手紙は墨痕も鮮やかで非常にうまい。文言も信長流で実に簡明だ。「働き手柄にて候」という書き出しで幽斎の長男、15歳の忠興(三斎)の戦いぶりを褒めたものがある。徳川家康では「(石田)三成を生け捕りにした。三成に一番苦しめられたのはあなたなのだから真っ先にお知らせする」というのが面白い。それを含めて文書は約10万点近くある。
2.高松宮御用掛で日記を
昭和18年(1943)10月31日、箱根湯本の近衛文麿さんを訪ね、私は「高松宮様の御用掛」を務めることが決まった。その仕事とは、できるだけ各方面の識者に会い、それらの方々の意見や情報を集め、これを記録して機会あるごとにその内容を高松宮殿下のお耳に入れることだった。任務は実に容易ならざるものと直感した。まかり間違えば命も危ない。この重大な任務に際し私は日記をつけることにした。日記は戦争中の昭和18年11月2日から、戦後の21年10月17日まで記したが、分厚い大学ノート4冊にびっしり書き込んでいった。日記には各国の戦力分析など細かい数字が次々と出てくる。よく覚えられたものだ。
3.近衛文麿公の自決
昭和20年(1945)8月16日、松平康昌内府秘書官長から電話があり。近衛さんとともに箱根から上京した。正午にお呼び出しがあって、内大臣室に入るとそこには東久邇殿下、木戸幸一内府らがおられ、席に着くや宮様から私に「僕の秘書官をやってもらうのだ」とお話があった。しかし、私はお断りをして、無任所大臣として入閣することになった近衛さんの三度目の秘書官になった。
昭和20年12月6日、戦犯名簿が発表されて、その中に、木戸さんとともに、近衛さんは自分の名前があるのを知ってから、さすがの公も動揺があったようだ。いろいろ熟考することもあり近衛さんは最も愛した軽井沢の地に向かった。公の内に潜む激しい気性からすれば当然「死」を予想されたことだったが、わたしにはその決心を読み取ることができなかった。
巣鴨に入所する前日の12月15日、終日、荻窪の荻外荘で親しい人々と楽しく語られ、当時の食糧お配給など社会問題の話には格別の興味をもって熱心に聞き入っていたという。翌朝16日、近衛公は青酸カリで自決し、54歳の生涯を閉じた。以後、私の細川日記も政治との決別を記して、ペンをおいた。