掲載時肩書 | TDK会長 |
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掲載期間 | 1986/03/04〜1986/03/31 |
出身地 | 兵庫県神戸 |
生年月日 | 1912/08/27 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 神戸大学 |
学歴その他 | 神戸高等工業 |
入社 | 鐘紡 |
配偶者 | 見合:父鐘紡娘 |
主な仕事 | 東京電気化学(TDK)、フェライト、ラジオ→テレビ、カセット・ビデオテープ、人材育成、読書会、国際フェライト会議4回開催 |
恩師・恩人 | 高尾三郎、斎藤憲三社長 |
人脈 | 武藤山治(母奉公)、加藤与五郎、武井武、山﨑貞一、松下幸之助、後藤英一、谷川徹三 |
備考 | 宇野千代「天風先生座談」,修破離、バラづくり |
1912年(大正元年)8月27日 – 2004年(平成16年)4月12日)は兵庫県生まれ。実業家。1937年に当時従業員4名だった東京電気化学工業(現TDK)に入社。入社後は一貫して営業部門を担当し、松下電器産業(現・パナソニック)など大口の取引先を開拓。昭和44(1969)年には社長に就任。積極的な海外進出でTDKを世界最大の磁気テープメーカーに育て上げ「中興の祖」と呼ばれた。バラ愛好家としても知られた。
1.心の美人でなくては
昭和7年〈1932〉、母が鐘紡社長の武藤山治さんのお宅に奉公していたご縁で、武藤さんにお願いして鐘紡に入社することになった。大阪・心斎橋のサービスステーションに配属された。サービスステーションというのは、お客の声を聞く、つまりマーケッティングの必要から、鐘紡の全額出資でできた会社だった。
当時、職業婦人と言えば電話交換手とタイピストぐらいで、非常に少なかった。そのため心斎橋サービスステーションで女性社員を募集したところ、600人もの応募があった。その中から選んだのだから、大変な美人ぞろいで、「主婦の友」など婦人雑誌の表紙を飾る人が何人もいた。
美人に囲まれて、さぞうれしかったろうと思われるだろうが、彼女らと仕事をするうちに、美人というのはダメだな、と痛切に思った。美人であることを鼻にかけるというか、謙虚さがないのである。長く付き合うには、心の美人でなくては、と思い知らされた。
2.フェライト事業を決意した教授の言葉
TDKの創業者斎藤憲三さんは、東京工大電気科の主任教授、加藤与五郎先生から、「日本人の頭脳から出た創意工夫に基づくが本当の発明。それがフェライトです。これで外国特許のイミテーション工業ではなく、日本独自の工業を起こしてください」と激励された。
フェライトは昭和6年(1931)、加藤教授と武井武助教授が発明した独創的な強磁性体である。抵抗率が高く、高周波で性能を発揮するため、高周波磁性材料として、テレビ、ラジオや通信機器、産業用電子機器など幅広い分野で磁心として使われるほか、エレクトロニクス製品にはなくてはならない材料である。
しかし斎藤さんがフェライトの工業化を決意したのは、加藤先生から「将来、電波の時代が来るが、電波というものは一切、フェライトによって処理されていく。だから、森羅万象がこのフェライトの中に入っている」という言葉に触発されたからだった。
昭和10年〈1935〉12月7日、特許権を持つ加藤、武井の両先生から特許を譲り受け、新会社を設立した。社名は東京電気化学工業(のちTDK)。資本金は2万円、陣容は斎藤社長以下、事務の女性を含めて4人。東京・芝田村町の桜田館の一室を事務所にしてスタートした。
3.人材育成を制度化する
昭和44年(1969)1月、山﨑貞一社長が会長になり、専務だった私はTDKの第3代社長に就任した。社長として最も力を入れたのは人材の確保である。「企業は人なり」とはよく言われるが、経営者の大きな役割は質の良い社員を養成し、企業としての社会的使命を果たすことである。私は社員教育に力を入れた。
48年(1973)に人事部と教育課を統合して人事教育部としたのもそのためである。人事は社員の能力開発のためにやるもので、人事制度そのものが社員教育という思想である。従って新入社員の採用も、現場からの要求数ではなく、教育できる範囲の人数を採る。何しろ大卒の新入社員でも、3年間は専任の先輩を付けて教育する。先輩は教育の報告書を出さねばならないし、1年ごとに社長や担当役員が新入社員の質問に答える機会を設けているから真剣に取り組む。
社員教育の対象は幹部社員にまで及んでいる。46年から始めた制度に、経営補佐レベルの管理職を対象にした1か月の自由研修がある。1か月休暇を与えて、その間何をしようが自由。リポートを見ると「海外へ出て英会話をマスターした」「東京から青森まで自転車で走破した」「高校野球を全部記録した」と、さまざまである。