掲載時肩書 | 映画監督 |
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掲載期間 | 2005/08/01〜2005/08/31 |
出身地 | 岐阜県 |
生年月日 | 1931/03/09 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | |
入社 | 松竹 |
配偶者 | 岩下志麻 |
主な仕事 | 陸上国体、小津組、ヌーベルバーグ組、「心中天網島」「沈黙」「瀬戸内少年野球団」「スパイ・ゾルゲ」 |
恩師・恩人 | 河竹繁俊、小津安二郎 |
人脈 | 阿久悠、和田勉、松竹同期(大島渚・山田洋次・高橋治、吉田喜重1下)、寺山修司、武満徹、遠藤周作、石原慎太郎、司馬遼太郎、阿久悠 |
備考 | ヌーベルバーグ、箱根駅伝走者 |
1931年3月9日 – ) は岐阜生まれ。映画監督。1960年代にかけて大島渚、吉田喜重とともに松竹ヌーベルバーグの旗手と呼ばれた。早々に会社と衝突して独立した二人と異なり、篠田は松竹にしばらく残った後、1966年にフリーになり、翌1967年に独立プロダクションの表現社を設立した。前衛的作品も辞さない大島や吉田に比べ、篠田は平易なサービス精神も持ち合わせており、独立後の60年代後半から70年代前半は『心中天網島』(1969年)や『無頼漢』(1970年)などの先鋭的な作品を独立プロから連発した。
1.助監督たち
昭和28年(1953)、就職不況のただ中にあった私は松竹大船撮影所の助監督試験を受けた。5人採用の所に3千人が応募した。好況の松竹撮影所は8人に増やしてくれたお陰で私は採用された。同期には東大国文科の才知と文章力を持つ高橋治がいた。私は最初、小津監督のカチンコにアロハとジーンズの服装で参加したものだから、撮影所のゴシップになり先輩の小林正樹監督が心配して親切な忠告をしてくれたこともある。この年、映画製作を再開した日活撮影所に先輩の助監督の多くが、ごっそりスカウトされて華々しく監督デビューを果たしていた。松竹は好景気に伴う人員不足から、助監督の更なる募集をかけることになった。その新人群のなかに大島渚、山田洋次らの名前が発見され、さらに翌年には吉田喜重、石堂淑朗、田村孟らの登場となった。
2.城戸社長の監督試験に合格
松竹映画の創設者である城戸四郎さんは、映画の使命は脚本にあるという信念から監督にもその才能を要求していた。他の映画会社がプロデューサー主導の製作方法を採用しているのと違って、松竹が脚本の書ける監督主義であった結果である。山田洋次監督の「男はつらいよ」は大船の監督主義の土壌なくしては生まれないのだ。大船の助監督から脚本家としてプロになった山田太一さんはじめ、田村孟、石堂淑朗、田向正健など諸氏を輩出したことも城戸四郎という人の映画作りを理解できるはずだ。
私も初めて自分が作りたいと思う脚本を書き上げ所内のコンクールに応募し、大島渚の作品と首位を争うことになった。体育会系の篠田が脚本を書いたといって話題なっていたが、城戸社長邸に呼ばれ面談となる。小津監督の映画手法などを質問された後、「君の監督昇進を認めるよ」と言ってくれた。
3.岩下志麻の暗示
松竹は不振の経営を合理化するために京都太秦の撮影所閉鎖を決めていた。その最期の作品に司馬遼太郎原作を「暗殺」と改題して撮影に入った。丹波哲郎が暗殺者・清河八郎に扮して好演した。清河には連という妾がいた。殺伐な暗殺劇に彩をという会社の要請で私はすっかり無縁となった岩下志麻を指名した。彼女は大船が誇るメロドラマ「あの波の果てまで」のヒロインを演じて大当たりをとり、多忙を極めていた。
無事完成すると、プロデューサーが完成祝いにナイトクラブに私と岩下を招待してくれた。ダンスの苦手な私を岩下はフロアに誘って踊り始めた。ステップを踏みながら意外な言葉が彼女の口から飛び出した。
「私、あなたと結婚するような気がします」と。世間は東京オリンピックを開催する直前で浮足立っていた。
4.暗い作風から明るい「瀬戸内少年野球団」に
司馬遼太郎さんから、「心中天網島」「沈黙」「暗殺」などを撮る私の作風を「君の映画、暗いよ。このままでは客を失うよ」の忠告を受けていた。そんなとき、阿久悠さんから自作の「瀬戸内少年野球団」が持ち込まれた。中学3年から始まった私の戦後は悲劇的な感情に囚われていたが、小学校3年だった阿久さんのそれは陽気なアメリカンで明るい戦後が描かれていた。同じ敗戦という歴史体験を語る言葉が、6歳年下の阿久さんと私との間で大きく違っていた。少年たちの若々しい歓声が聞こえる映画を作り、渡辺謙さん、夏目雅子さんの好演もあり、お客もいっぱい入ってくれた。
氏は2025年3月25日、94歳で亡くなった。「私の履歴書」に登場は2005年8月の74歳のときでした。
松竹退社後の67年に女優の岩下志麻と結婚し、独立プロの表現社を設立。69年「心中天網島」など野心作を次々と世に問い、「夜叉ヶ池」などを経て、終戦直後の淡路島の少年少女を通して戦後日本を見つめた「瀬戸内少年野球団」(84年)がヒット。86年「鑓(やり)の権三(ごんざ)」はベルリン国際映画祭銀熊賞(芸術貢献賞)を受けた。
1.小津安二郎監督
カチンコといえば通常4人がつく助監督のビリの仕事である。70人がひしめく助監督に中でカチンコからチーフになるまで10年はかかるといわれるのに、同期の高橋治や大島渚はたった数年でチーフになっていた。彼らは古風な撮影所の変革を目指す同志を糾合して徒党を組み、助監督というルーティンから脱出を考えていたのだ。
1957年ごろ、私は小津組の応援としてついていた。この人事も映画界の異変と関係があった。封切られた映画が次々とヒットしなくなり、切り札として小津作品を早く公開しろ、という劇場の要求に、撮影所は小津に完成を急がせた。決して残業をしないで丹念な演出にこだわる小津安二郎のスタイルが維持できなったのだ。ここにもテレビに追われて困惑する映画界の斜陽の長い影を見出すことができよう。そこで体力強壮の私が呼び出されたのだ。「東京暮色」のセットで、ロウアングルに固定されたカメラの横に私は正座し、小津さんの指示に従って食卓に置かれた道具の一つひとつをポジションに決める。カメラを覗きながら小津さんは緊張した現場をほぐすために時々冗談をいう。「篠田、その湯飲みを3cm鎌倉へ」と。照明の光しかないスタジオを闇の中で方角を失った私は狼狽して辺りを見回す。失笑が起こり、私は鎌倉の方角と思われる位置に湯呑を3cm動かすのだ。畳スレスレのカメラを覗く小津安二郎を横目にしながら、あれは寝そべった神様だと思った。
2.石原慎太郎作品・映画化「乾いた花」
1964年、映画「乾いた花」の舞台の大半は賭場である。今では世界的なゲームブランドになっている任天堂は怪奇で浪漫的なデザインで愛用され花札の発行元である。この前近代美学の結晶のような花札と、生きることの意味を失ったヤクザの実存を描いた石原の世界は私の実験的な意欲をそそった。武満徹は、数学理論を作曲に応用してこの映画に新しいシンセザイザー音楽を採り入れてくれた。こうして「乾いた花」は完成した。会社側はどう評価してよいか、明らかに戸惑いを見せた。撮影所から帰途、重苦しい試写会の空気を悟った武満は「いい映画ができたから自信を持てよ」と私を励ましてくれた。が、賭場の詳細を極めた描写が反社会的という映倫の裁定を口実に、松竹はオクラ入りを決定した。
日経新聞「評伝」2025.3.28 概略
松竹から独立後は近松門左衛門の人形浄瑠璃を映画化した「心中天網島」も注目を集めた。大学時代に専攻した演劇史には一貫して関心を持ち続け、「河原者ノススメ」の取材のときは「映画監督の余技だと思われると心外です」と語った。
「瀬戸内少年野球団」のヒットの背景には、作家の司馬遼太郎からの明るい作風を求めるアドバイスがあったという。話し始めたら止まらない情熱的な言動が、妻の岩下志麻さんをはじめ、多くの人の心をつかんだのだろう。(中野稔)
この項目は訃報が伝えられた直後の人物について扱っています。 |
しのだ まさひろ 篠田 正浩 | |||||||||||||||||||
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![]() 『キネマ旬報』1962年4月上旬春の特別号より | |||||||||||||||||||
生年月日 | 1931年3月9日 | ||||||||||||||||||
没年月日 | 2025年3月25日(94歳没) | ||||||||||||||||||
出生地 | ![]() | ||||||||||||||||||
職業 | 映画監督 株式会社表現社代表取締役 早稲田大学特命教授 日本中国文化交流協会代表理事 城西国際大学客員教授 | ||||||||||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||||||||||
活動期間 | 1960年 - 2003年 (映画監督) | ||||||||||||||||||
配偶者 | 白石かずこ 岩下志麻 (1967年 - ) | ||||||||||||||||||
著名な家族 | 篠田桃紅 (従姉) | ||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||
『乾いた花』 『心中天網島』 『はなれ瞽女おりん』 『夜叉ヶ池』 『鑓の権三』 『少年時代』 『写楽』 『スパイ・ゾルゲ』 | |||||||||||||||||||
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備考 | |||||||||||||||||||
受賞・ノミネートも参照 | |||||||||||||||||||
篠田 正浩(しのだ まさひろ、1931年3月9日 - 2025年3月25日)は、日本の映画監督。株式会社表現社代表取締役、早稲田大学特命教授[1]、日本中国文化交流協会代表理事、城西国際大学メディア学部客員教授[2]。