掲載時肩書 | 俳優 |
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掲載期間 | 1986/08/01〜1986/08/31 |
出身地 | 熊本県 |
生年月日 | 1904/05/13 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 東洋大学 |
学歴その他 | 印度哲学科中退 |
入社 | 松竹キネマ |
配偶者 | 高知出身妻 |
主な仕事 | 蒲田大部屋、30で老け役、序列(幹部 、幹部待遇、準幹部、準幹部待遇) |
恩師・恩人 | 田尻裕之、小津安二郎 |
人脈 | 城戸四郎、清水宏(田中絹代)、木下恵介(多出演)、原節子、稲垣浩、佐田啓二、上原謙、岡本喜八 |
備考 | 16代住職 |
1904年(明治37年)5月13日 – 1993年(平成5年)3月16日)は熊本県生まれ。俳優。1925年(大正14年)に松竹に入社し、10年間ほど大部屋俳優として過ごした後、小津安二郎監督に見いだされ、彼の『大学よいとこ』で助演。以降『晩春』『東京物語』など、小津作品には欠かせない俳優となった。小津作品以外にも黒澤明、木下恵介、岡本喜八、山田洋次等、名匠の作品に数多く登場し、貴重なバイプレーヤーとして活躍。一貫して日本の父親像を演じてきた。日本を代表する老け役の1人である。
1.監督に恵まれる
下手で不器用な私のどこが良かったのか、不思議なことに大監督さんたちが、たびたび私を出演させてくださった。清水宏、島津保次郎、吉村公三郎、木下恵介、渋谷実、大庭秀雄、稲垣浩、千葉泰樹、岡本喜八、小津安二郎、山田洋次・・・これらの巨匠に、それも繰り返し使ってもらえたのは誠に幸運だった。
映画の良し悪しは、結局のところ本(脚本)と監督で決まる。優れた監督は悪い本を掴まないし、自分も書く人たちである。そういう監督たちの作品に出ることができた点で私は恵まれていた。
2.俳優研究所から出発
松竹キネマの蒲田撮影所内の2階に俳優研究所の教室があった。学科の講義と演技の実習があった。
学科の方では、脚本家の野田高梧先生が東洋演劇史を、監督の牛原虚彦先生が映画史を講義していた。野田先生が早稲田大学、牛原先生が東京帝大の出身だったから、お二人の講義は大学のようだった。
3.大部屋の役者(チョイ役ばかり)
俳優研究所から松竹の大部屋に入ったが、数年間はいろいろな映画に出ていたものの、相変わらず総出や仕出しの役ばかりであった。総出というのは、運動会の場面の群衆とか、銀座の街中を歩く通行人といった、その他大勢の名もない役どころである。また仕出しというのは、例えば店先に立つ店員とか、街角のお巡りさんといったチョイ役で、ときには何か一言か二言、ものを言ったりすることもあるが、やはり役名のない人物である。当時の私(20歳代)は、学生とか兵隊の役に駆り出されることが多かった。
4.老け役が専科に
私が、まだ30代にはいったばかりのとき、小津監督から「笠さん、老け役をやったことあるかい。いっぺん、やってみるか」と声を掛けられた。「一人息子」を監督する監督の注文とあれば否応もなかった。この老け役の評判が、大変良かったのである。セリフ回しも、なかなかいいと言われたので、以後は自信になってきた。
ただ戦後の昭和28年に、やはり小津先生の「東京物語」で、東山千栄子さんと老夫婦やったときは、年齢のバランスを、それらしく見せるのに苦心した。東山さんは、ほぼ実年齢のそのままの65歳ぐらいの役だったが、私の方は、まだ50にもならないのに、役の年齢は72歳だった。このときも、小津先生に、しょっちゅう「笠さん、老けていないぞ」といわれたものだ。私も、もう82歳である。実年齢そのままの役は、めったにないから、今では、むしろ若くつくるのに苦心している。
5.山田洋次監督と「寅さん」
「男はつらいよ」の名シリーズが始まったのは、昭和44年(1969)からである。第一作からずっと、柴又帝釈天の「ご前さま」の役で出してもらって、今年で36本目だった。日本映画のヒット作品といえば、すぐに戦前の「愛染かつら」や戦後の「君の名は」などを思い出すが、それでも、せいぜい3部作か4部作だろう。山田監督が36本もヒット作をつくり続けたというのは、私には神業としか思えない。最近では私の年齢を考えてのことだろう、私の出演する場面の撮影は、だいたい一日で済ませてくださり、感謝しているのです。
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りゅう ちしゅう 笠 智衆 | |||||||||||||||
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1940年ごろ | |||||||||||||||
本名 | 同じ | ||||||||||||||
生年月日 | 1904年5月13日 | ||||||||||||||
没年月日 | 1993年3月16日(88歳没) | ||||||||||||||
出生地 | 日本 熊本県玉名郡玉水村立花(現在の玉名市) | ||||||||||||||
死没地 | 日本 神奈川県横浜市 | ||||||||||||||
身長 | 171 cm | ||||||||||||||
職業 | 俳優 | ||||||||||||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ | ||||||||||||||
活動期間 | 1928年 - 1992年 | ||||||||||||||
配偶者 | あり | ||||||||||||||
著名な家族 | 笠兼三(孫) | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
映画 『父ありき』(1942年) 『東京物語』(1953年) 『秋刀魚の味』(1962年) 『夢』(1990年) テレビドラマ 『たまゆら』 『波の盆』 | |||||||||||||||
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笠 智衆(りゅう ちしゅう[1]、1904年〈明治37年〉5月13日[1][2] - 1993年〈平成5年〉3月16日[2])は、日本の俳優。身長171cm[3]。
1925年(大正14年)に松竹に入社し、10年間ほど大部屋俳優として過ごした後、小津安二郎監督に見いだされ、彼の『大学よいとこ』で助演した。以降『晩春』『東京物語』など、小津作品には欠かせない俳優となった。小津作品以外にも、木下惠介、岡本喜八、山田洋次、黒澤明等の監督の作品に登場し、貴重なバイプレーヤーとして活動した。一貫して日本の父親像を演じてきた。日本を代表する老け役の1人である。