竹田弘太郎 たけだ こうたろう

交通(陸海・海運)

掲載時肩書名古屋鉄道社長
掲載期間1980/10/01〜1980/10/30
出身地愛知県清洲
生年月日1916/01/02
掲載回数30 回
執筆時年齢64 歳
最終学歴
早稲田大学
学歴その他早稲田高等学院
入社名古屋鉄道
配偶者学校先輩妹
主な仕事6年間中国出征(死線)、労組委員長、再雇用制度(定年延長)、石川交通、網走バス、サンケイバレー、明治村、名商会頭
恩師・恩人土川元夫、中山伊知郎
人脈神野金之助、荒木東一郎、山本実、真野晴彦、鹿内信隆、林屋亀次郎、富永覚夢
備考代々:郡長、町長、趣味:漢詩
論評

1916年(大正5年)1月2日 – 1991年(平成3年)10月29日 )は愛知県生まれ。実業家。名古屋鉄道(名鉄)の元社長。「人を基本に、従業員を尊重し、地域との共生を図ること」をモットーに、リトルワールドや杉本美術館などの文化施設の開設や1989年(平成元年)の世界デザイン博覧会の開催に携わるなど、文化事業にも力を入れた。社外では、1978年(昭和53年)から名古屋商工会議所副会頭、1981年(昭和56年)12月から1990年(平成2年)3月までに同会頭を務め、東海銀行監査役や日本銀行参与、NHK経営委員会委員長などを歴任した。

1.全員死を覚悟せよ
昭和19年(1944)の作戦は長期の大作戦であった。いつもとは違い駐屯地を引き払って、各自の私物は勿論留守要員も残さず、全員死を覚悟せよという命令がきた。後に湘桂作戦と呼ばれたものである。ときに軍曹であった私は、機関銃分隊長として編成に加わったが、中隊の中には身体の故障者も頭脳に故障のある者も数人いて、これらの要注意の兵隊は私が年長のせいもあって、私の分隊に配属され、面倒を見ていくことになった。
 分隊は私以下13人、機関銃と駄馬二頭という編成である。私は出発の前夜、隊員の覚悟を促し万一の場合、自刃の方法まで教えた。この後各地で戦闘を交えながら進んだが、部下の一人は足を痛め、行軍の辛さに耐えられなくなって部隊から離脱した。捨て置けず、部落をシラミつぶしに捜索し、夜の明けるころようやく発見した。その時、暗い土間の一隅で亡霊のような姿で跪いていたのが目に浮かんでくる。
 また隣の分隊の欠員補充を私の分隊に要請された時、私は最も信頼できる有力な部下を指名した。ところが皮肉にも、しばらくして彼が下痢を起こし、その分隊の手足まといになった。純情な彼は隊員に申し訳ない一心で、私の信頼も裏切ったことの自責の念か、小休止中に物陰で喉を突いて自刃したのだった。

2.病気と精神力との関係を悟る
長征の間、私自身がアメーバ赤痢にかかり野戦病院に入院することになった。病院とは名ばかりで、民家の土間に戸板を並べて患者は横たわっているに過ぎない。病院には既に薬物が尽きていた。同室20数人の患者のうち、毎日2,3人が死に、そこへまた新しい患者が運び込まれてくる。死者は数日ごとに纏めて、病棟の前で荼毘に付される。こういう環境では、人間はその醜さや浅ましさを露呈することも知らされた。この地獄のような中で生きるためには、気力以外に何もない。
 ある日軍医が空き瓶に水を満たして持ってきて、部屋の真ん中に置いた。その中に小さな川魚が4,5匹泳いでいる。「あすこれをお前たちに煮て食わせる」といった。朝晩2回飯盒のふたに配られる重湯すら喉を通らず、死んでいく患者にそんなものが食えますか、と私が尋ねると、軍医はああ言っておけば、今夜死ぬ者が明日まで命をつなぐ、それで峠を越せば、運よく助かる者もある、あれを見せておくのも一つの薬だ、というのである。私はこれを聞いて病気と精神力との関係を悟ることができた。

3.土川元夫社長の経営観
土川さんは関連事業を次々と創始する中で、時に遠隔地でも経営困難な会社の経営を頼まれると、気前良く引き受け、我々をその経営に当たらせた。土川さんはそれによって、若い役員を教育する考えだった。
(1) 石川県全県にシエアを持つ石川交通というタクシー会社。
(2) 網走市長とバス経営者に頼まれて網走バス会社。
(3) 福井県の福井鉄道の労使関係がうまくいかず、知事や銀行筋から頼まれる。
(4) 琵琶湖を望む比叡山の山続きのサンケイバレイを産経新聞の鹿内信隆社長から頼まれる。
(5) 京都大学とモンキーセンターの産学共同や明治村、沖縄の石垣島研究所など、である。

竹田 弘太郎(たけだ こうたろう、1916年大正5年)1月2日 - 1991年平成3年)10月29日 )は、日本の実業家名古屋鉄道(名鉄)の元社長。

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