掲載時肩書 | 臨済宗大徳寺派顧問 |
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掲載期間 | 1984/01/01〜1984/01/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1899/12/22 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 84 歳 |
最終学歴 | 商業高校 |
学歴その他 | 堺私立 実業高 |
入社 | 自営手伝い |
配偶者 | |
主な仕事 | 洋紙店、南宗寺、出家、僧侶スト、インド・東アジア巡礼、四国巡礼、世界1周旅行、大徳寺如意庵、イラン、花園大学 |
恩師・恩人 | 清隠和尚 |
人脈 | 賀川豊彦、梶浦逸外師、松永安左ヱ門、五島慶太、池田勇人、奥村綱雄、ハロッド博士夫妻、松下幸之助、福田赳夫、湯木貞一 |
備考 | 「履歴書」は「懺悔録」 |
1899年(明治32)~2005年(平成17))は大阪生まれ。堺市の大徳寺派南宗寺で得度し、妙心寺派正眼寺専門道場で修行。大徳寺別院徳禅寺住職を経て、1953年に大徳寺派宗務総長に就任する。管長代務や顧問などを歴任した。茶道の造詣も深く、茶掛、茶杓などの作品も制作、茶陶の指導を行った陶芸家の中には信楽焼の人気作家、杉本貞光氏がおり、彼の作品によく箱書きなどを遺した。昭和43(1968)年5月、大徳寺511世住持となる。以後、大徳寺最高顧問。昭和48(1973)年、大徳寺山内に如意庵再興。昭和55(1980)年、奈良大宇陀に松源院再建。昭和57(1982)年より昭和61年まで花園大学学長。
1.禅の修行(大正9年(1920):21歳)
堺の南宗寺で得度して1年後、本師の命令で岐阜県伊深村(現美濃加茂市)の正眼寺専門道場へ入る。
禅では、自分自身とは一体何なのか。肉体と心の2つが同居して一体となっており、どう分離することもできない。この二元を超える、二元をハッキリ捨て去る、すなわち、死人に成り切る時、ハッと気がつく時がくる。それを見性と名づけて、人間本来を視(み)ることができるというのである。それを把握せんために専門道場では座禅参禅と申して、禅堂で座禅を組み、師家から公案という説得できない難問をいただいて、その難問解決に取り組む。朝夕一人ひとり、師家の膝下(しっか)に難問についての自己の見解を呈しにいくのである。一つの公案が通れば、また次の公案が与えられる。参禅はすべからく30年と称せられる。
朝は4時に起き、読経に続き朝食、朝めしは天井ガユと言って、天井が映るほどのしゃぶしゃぶのかゆである。それが済むと師家の所へ公案に対する見解(けんげ)を呈しに一人ひとり行く。すめば作務(さむ)である。昼めしとても麦八分、米二分である。夜は普通は9時に床に就く。布団はせんべい布団で、敷布団、かけ布団兼用の一枚切りをかしわ餅のように二つに折って挟まって寝る。かしわ布団である。座禅の時の敷物を枕(まくら)にする。接心ともなると、夜も横にならずに1週間の座禅三昧(ざんまい)。冬の寒い時にもやり、そんな時には逃げ出す者もいる。
人である以上、食べてゆき、生活がある。よって田畑もやる。出来る限り自家製でやる。縄をない、マキを作る。割木を作る、下駄を作る、箒(ほうき)を作るなど、これらを作務というのである。作務とは労働のことであるが、労働は賃金が目的であるのに、作務は人が生きていく上の務めである。務めを作(な)すとするのである。さらに托鉢(たくはつ)とて乞食ともなる。ただ、乞食には違いないが、人にモノを惜しまずに捧げることが善因善果である、知らしめる事にもなるし、人はどん底の生活を身につけておく方が良い。底辺の生活をした者でなければ分からない人間がある。托鉢は真の人間を看(み)るための一つの修行なのだ。
2.ケインズ経済学のハロッド博士と禅問答
昭和33年(1958)、講演のため来日したハロッド夫妻を一休和尚のお寺、真珠庵にご案内して、有名な庭玉と名づくる茶室へ案内した。ハロッドさんは「これは何をするところか」と問われたので、私は「お茶を飲む所です」と答えたところ「せっかくお茶をいただくのであれば、もっと広々としたところの方が楽しいではないか」と言われた。私は「いや、日本には詫びという思想があって、こうしたところで戴くのです」と答えると「詫びとはどんな思想か」と訊く。私は「詫びる。すみませんということです」というと、ハロッドさんは「私は何も悪いことをしたことがないから、詫びることはない」という。
そこで「あなたは何歳におなりか知れんが、ご夫妻で、生まれてから今まで、何匹、牛や豚を殺しましか。泣き叫ぶのを追いかけて食うておって、悪いことしたことはないとは、許せない」と語った。「そりゃそうですが、あなたも同じでしょう」というのである。ハロッドさんはどう思ったのか「日本にはそんな良い考え方があるのに、なぜ戦争をして、中国で何十万人も人を殺したのか」と言うので、「日本は何も好んで戦争をやったのではない。戦わざるを得ないように仕向けた国があって、やむなくやったのである」と言うた。「そんな悪い国はどこか」と聞くから「あなたの国ですよ。七つの海を支配しながら日本の台頭を押さえんとして、綿花は売らない、油も売らないという。経済封鎖をするからです。だから罰があって、あなたの国の植民地は独立したでしょう。今度の戦争であなたの国が一番痛手を受けたでしょう」と難詰した。その日は彼氏、どう思ったか黙ってそのままであった。やがて半年ほどたって、手帳ほどの冊子を送ってくれて、このたびの日本訪問で大きな収穫は詫び思想であるとして、詫びについて相当詳しく書いていた。これ以後親しくなった。
1.万物統べる法を見よ
物は人、人は仏、これぞ仏性
私の属する宗派は禅を奉じる臨済宗である。禅とはインドの古語であって、「正しく慮る」と訳させていただこう。お釈迦樣が、永年の苦労の末、菩提樹の下にどっしりと座られて遂に明けの明星を一見して悟られたのを端的に取り上げられて、我等もそれによろうとするのである。
2,達磨大師
今から千四百五十余年も前、インドに達磨さんという方がおられて、中国では仏教が盛んだが、ともすれば文字言句に走り、その中にあるものを見逃してしまう恐れなきにしもあらずとて、インドから船で中国に渡られた。少林寺という寺で壁に向こうて九年間黙って座っておったという。やがて一人の尊者を得て、その方がまた次から次へと法灯を伝え、いつしかに禅門というものが形づくられていった。
達磨大師から三百年もたったころ、唐の時代に臨済禅師という方が出られた。われらはその臨済禅師の家風をそのまま伝えようとしているのである。その家風が鎌倉時代に日本に入ってきた。鎌倉末期、大灯国師が京都紫野に大徳寺を開かれた。以釆一千百数十年、私は昭和四十三年五月に大徳寺の第五百十一世の住持となった。
本来、仏教という名の仏は、これもインドの古語であって、訳して覚(め)ざめとするのである。何を目覚めんとするのか。それは法である。法とは物をかくあらしめている全体の姿のことである。お釈迦様は人間性を脱皮せられて一大宇宙の根元に達せられて、本源、つまり法を把握せられた。悟られたのである。それで仏様になられたと申し上げるのである。ゆえに仏教では人即仏である。人と仏の間にカーテンはない。また物と人との間にもカーテンはない。悉有仏性とて、人間はもちろん、草にも虫にも仏性があると言うのである。しかし人ならねば、この悟りを達成出来ないゆえ、人を尊ぶのである。
3.人は罪づくりの存在
私は八十四年間、悟りを開くどころか、亥年生まれにたがわず、ただただ猪(ちよ)突猛進してきた。その間、悉有仏性を知りつつも、生きとし生けるものを食料としてきたことの罪業の深さにため息するのである。春になって裏庭に草が生えると、ついつい草取り作務をする。抜いても抜いても萌え出ずる草は力強く芽ぱえてくる。草は生きよう生きようとしている。それを人間がきたないと言って抜き取る。手に草取りつつ「罪なもんだなあ」と思うのである。
いわんや動物魚鳥は、人の姿を見たら必ず逃げる。それを追い、捕まえて、殺してわれが生きている。この犠牲なくして生きることができないならば、人はすべての物によって生かされていると気づかなければなるまい。生かされているなら、われもまた、なにほどか他のために生きるべきであろうか。
ちょうど雨が草木に生命を与え、人間や動物をうるおし、それがまた地に戻され川に流れ込み海に注いで、太陽に照らされて雲となり再び雨となるように、また草木も人も動物も地から生じ、土に返ってゆくように。
そうしたことを考える時、現代の科学といい、文明というものが果たして人間にとって大きな益をもたらすのか否か疑うてしまう。確かに人々をして安楽化せしめるが、裏面は人をして困難に陥れる悲しみがある。近代の核兵器の出現はまさにそのきわまりであろう。(1984.1.31)
立花 大亀 | |
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1899年12月22日 - 2005年8月25日(105歳没) | |
名 | 大亀宗雄 |
生地 | 日本 大阪府堺市 |
宗旨 | 臨済宗 |
宗派 | 臨済宗大徳寺派 |
寺院 | 大徳寺、徳善寺、南宗寺 |
師 | 清隠道厳 |
著作 | 「度胸の据え方」、「利休に帰れ」、「死ぬるも生れるも同じじゃ」他 |
立花 大亀(たちばな だいき、1899年(明治32年)12月22日[1] - 2005年(平成17年)8月25日[2])は、日本の臨済宗の禅僧、茶人、書家。