掲載時肩書 | 歌人・芸術院会員 |
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掲載期間 | 1966/03/08〜1966/04/04 |
出身地 | 長野県 |
生年月日 | 1877/06/08 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 89 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早実専門 |
入社 | 米穀仲買手伝 |
配偶者 | 養子 2年半、再婚 |
主な仕事 | 代用教員、東京毎日新聞、読売新聞、国民文学、 早大講師、「新古今集」「万葉集」 |
恩師・恩人 | 植村正久牧師、 坪内逍遥 |
人脈 | 赤木春彦、吉江狐雁、水野葉舟、松村英一、半田良平、前田晁、岩本素白 |
備考 | 基督教受洗 |
1877年(明治10年)6月8日 – 1967年(昭和42年)4月12日)は長野県生まれ。歌人、国文学者。「明星」的ロマンティシズムから始まり、自然主義文学の潮流を短歌に導入した。30代以降は日常生活の些事を詠み続け、「境涯詠」と呼ばれるようになる。近代歌人としては珍しく長歌を旺盛に作っている。青年時代は小説家を志していた経歴も合わせ、ストーリー・テラーとしての資質を大岡信は高く評価している。『さざれ水』所収の「円タクの助手」のように都市風景をユーモラスに描いた長歌もある。
1.「美ヶ原」高原の発見者
明治28年(1895)ごろ、松本中学は、現在城山の上に移されて深志高校となっているが、当時は現在の松本公園のところにあり、深志城の内堀で囲まれていた。そこにカナダ人で牧師でもあったケネディという夫婦が牧師館に来ていた。この内堀は寒国のこととて冬季は厚い氷が張り詰めていた。
この氷の上で、ケネディはスケートを遊んだ。靴の底にピカピカ光る金属の物を着け、氷の上を思うままに、自由自在に滑って、楽しげに遊ぶのであった。この遊びなど松本中学の生徒で、以前に見た者は一人もいなかった。だれも生まれて初めて目にしたので、びっくりして見惚れていた。これをしたのはケネディだけでなく、細君もした。手を取り合い、一体の如くになって滑った。次いで赤ん坊を乗せた乳母車を引きながら滑った。生徒だけでなく、松本人の見ものとなった。ケネディ夫妻は得意になって滑り続けた。
現在は観光松本の主要な場所となっている松本市の東山上の「美ヶ原」の発見者はこのケネディだった。
2.坪内逍遥先生の指導法
明治29年(1896)、数え19歳の私は早稲田専門学校の文学部1年生として入学した。英文学の主任は坪内逍遥先生であった。当時先生は、1週30時間近く出講しながらも、他方では脚本「桐一葉」に専心しておられ、興来ると休講して執筆を続けられていた。
一年生の学生は、各自文章を書き、幹事はそれを一冊にまとめて回覧し、読後各自が文章に添えてある白紙に小評を書くのであった。輪読が終わると、それを坪内先生に提出した。先生は丹念に一々読まれ細評を加えられた。学生はそれをまた輪読した。そのあたり学校とはいえ、塾のようなところがあった。先生は学生各自の文才を熟知しておられた。これはよほど文芸を愛し、その卵を愛する心がなければできないことである。先生はそれをした人であった。師弟というだけでなく、父子の情が加わっていたのである。
3.「国民文学」の創刊
大正3年(1914)、38歳の6月、私は歌誌「国民文学」を創刊した。私が「電報新聞」の投稿短歌の選者をしたのは、明治37年(1904)を中心に2,3年間のことであった。当時の和歌投稿者は現在とは違って、20歳前の青年期初期の者が多かった。電報新聞の投稿者もそれで、東京在住者が多かった。作歌をする人が現在より少ないころだったので、おのおの同好者恋しい感を抱いており、その感に引かれて互いに尋ね合い、私が電報新聞社を退き、選者を辞めたころは、10何人かの小集団を成していた。親友の前田晁君に相談すると、題名を「国民文学」にし、知名な人の寄稿も仰ぐと、初刊は100頁を超えるものとなった。
4.学徒出陣前の授業
当時、その召集を受けた学生は、出陣前のある期間、早大の私の教室にも、平常時に比べてにわかに一杯となり、耳を澄ませて古歌の講義を聴いているのだった。学徒出陣の式は、運動場で行った。教員、残留する学生全部が賑わしく出席した。田中早大総長の送別の辞は沈痛なものであった。残留学生の「後から行くぞ」という送別の言は場の空に満ちた。その席に列していた私は、出陣の学生に代わって勉強して「万葉集評釈」を書こうと決意した。生きて還り来る者も多かろう。それら学生のためにも、万葉集の本質を掴みやすい書を著しておこうと決意したのであった。
誕生 | 1877年6月8日 長野県東筑摩郡和田村 |
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死没 | 1967年4月12日(89歳没) 東京都文京区目白台 |
墓地 | 雑司ヶ谷霊園 |
職業 | 歌人、国文学者 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 長野県尋常中学校卒業 |
最終学歴 | 旧制東京専門学校卒業 |
ジャンル | 短歌 |
主な受賞歴 | 日本芸術院会員(1943年) 文化功労者(1958年) |
子供 | 窪田章一郎 |
窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員。元早稲田大学教授。文化功労者。本名は窪田 通治。息子に、同じく歌人の窪田章一郎がいる。
草創期の「明星」に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。古典の評釈でも功績が大きい。詩歌集に『まひる野』(1905年)、歌集に『土を眺めて』(1918年)など。