掲載時肩書 | 衆議院議長 |
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掲載期間 | 1984/05/01〜1984/05/29 |
出身地 | 滋賀県 |
生年月日 | 1910/08/05 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 松江高 |
入社 | 片倉製紙 |
配偶者 | 片倉 姻戚娘 |
主な仕事 | 今井翁秘書、富岡工場を合併、埼玉副知事、議員、講和会議、テリアビブ事件、成田空港延長 |
恩師・恩人 | 今井五介翁(片倉)、吉田茂(おやじ呼び) |
人脈 | 西田修平、牛場信彦、鈴木俊一、斎藤邦吉、川島芳子、池田勇人・佐藤栄作(同期)、麻生多賀吉、浅沼稲次郎、安田靫彦 |
備考 | 甲賀(出身)と伊賀 |
1910年(明治43年)8月5日 – 1988年(昭和63年)5月31日)は滋賀県生まれ。政治家、第63代衆議院議長、内閣官房長官、労働大臣、厚生大臣、運輸大臣、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総務会長を歴任。自民党誕生後は吉田の流れを受け継ぐ宏池会に所属。第1次佐藤内閣・第2次佐藤内閣では内閣官房長官を務めた。自民党政権の総裁派閥以外の官房長官の例は他に、前首相の病気辞任による居抜き内閣的な場合を除けば後藤田正晴(中曽根内閣)・塩川正十郎(宇野内閣)がある。1978年3月26日の成田空港管制塔占拠事件時の運輸大臣であり、新東京国際空港(現・成田国際空港)の3月30日に予定されていた開港の延期を自ら発表する。
1.川島芳子(女傑・男装の麗人)の憂い
昭和8年(1933)の春、私は東大法学部を卒業し、片倉製糸に入社した。戦前の製糸業は、わが国最大の輸出産業であり、外貨収入でも圧倒的にトップだった。戦後でいえば鉄、造船、自動車、弱電機のようなものである。その製糸業の最大手が片倉だったが、私の入社したころは、工場が全国に60ぐらいあり、健康保険組合に入っている従業員が4万数千人に上っていた。私は社長の今井翁の秘書をしていた関係で、翁の息子・今井真平氏が工場長を務めている松本工場に手伝いに行くことになった。
この松本勤務は1年半ぐらいの短期であったが、「男装の麗人」と言われた清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の一族・川島芳子さんに出会った。彼女は「体を悪くしたので、療養のために松本に来た」と言った。私は彼女と、松本の中華料理屋などで何回か食事をした。「私は半分は中国人、半分は日本人よ」とよく言ったりもしたが、日本の大陸政策については激しい言葉で批判した。
「このままでは、日本の大陸政策は必ず失敗する。もっと中国人と日本人が理解し合えるような政策を進めないと、両国民がダメになる。たとえば土肥原のように、馬に乗って市内巡視の際に、中国人を土下座させるようなことをしてはならない。こんなことをさせているようでは、日本も不幸になりますよ。満州国と日本の関係を抜本的に改めなくてはいけません」と。
2.サンフランシスコ講和会議の風景
対日講和会議は昭和26年(1951)9月に開かれ、私は国会代表の一人として同会議に派遣された。この会議には52か国が参加、9月4日の開会式に始まり、ソ連、ポーランド、チェコスロバキュアの3か国を除く49か国が平和条約に調印して、9月8日閉会した。議長はアチソン米国務長官、米国代表はダレス氏、ソ連全権はグロムイコ氏で、すでに朝鮮戦争は勃発していた。
ダレス米全権のスピーチは格調高いもので、「われわれはここに神聖なる目的のために集まった。しかし、この平和によって最も祝福されるべき人々は、ここに集まったものではなく、平和のために生命を犠牲にした多くの人々である。われわれはその償いをせんがためにここに集まったのである・・」。このダレス氏の演説に続いて各国全権が次つぎに登壇するという形で会議は進行していった。オーストラリアの全権は、「ソ連は日本と数日間戦ったに過ぎない」ことを率直に述べ、「ソ連は日本の無防備を望んでいるが、ソ連の餌食にならないいかなる保障があるのか」等々と演説して拍手を浴びた。
吉田首席全権が、太い巻紙の演説草稿を持って登壇したのは、7日午後8時過ぎであった。「この条約は懲罰的、報復的条項を含まず、和解と信頼の条約であるから、日本は公正寛大なる条約を欣然(きんぜん)受諾する」。と述べた後、しかし若干の点について憂慮を感ずるとして、「領土問題」や「引揚者の問題」などについて各国全権に注意を喚起した。
この吉田全権演説の後、グロムイコ、ダレス、ヤンガー英国全権の間で激しいやり取りがあった。ダレス全権は地図を広げて、「日本の集団的安全保障を拒否し、宗谷、根室、津軽、対馬の武装を許さないのは日本分断の野望を隠すものである」と激烈な調子でソ連を非難した。
福永 健司 ふくなが けんじ | |
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1952年に撮影 | |
生年月日 | 1910年8月5日 |
出生地 | 滋賀県 |
没年月日 | 1988年5月31日(77歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 (現・東京大学) |
所属政党 | (自由党→) 自由民主党 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 |
子女 | 長男・福永信彦(元衆議院議員) |
第63代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1983年12月26日 - 1985年1月24日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第49代 運輸大臣 | |
内閣 | 福田赳夫改造内閣 |
在任期間 | 1977年11月28日 - 1978年12月7日 |
第51代 厚生大臣 | |
内閣 | 第2次田中角榮第2次改造内閣 |
在任期間 | 1974年11月11日 - 1974年12月9日 |
第9-10・26-27代 内閣官房長官 | |
内閣 | 第4次吉田内閣 第5次吉田内閣 第1次佐藤内閣第3次改造内閣 第2次佐藤内閣 |
在任期間 | 1953年3月24日 - 1954年12月10日 1966年12月3日 - 1967年6月22日 |
第19代 労働大臣 | |
内閣 | 第2次池田内閣第1次改造内閣 |
在任期間 | 1961年7月18日 - 1962年7月18日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 (旧埼玉1区→) 旧埼玉5区 当選回数 15回 (1949年1月24日 - 1988年5月31日) | |
第12代 自由民主党総務会長 (総裁:佐藤栄作) (1966年 - 1966年) | |
第4代 自由民主党国会対策委員長 (総裁:岸信介) (1959年 - 1960年) |
福永 健司(ふくなが けんじ、1910年(明治43年)8月5日 - 1988年(昭和63年)5月31日)は、日本の政治家、第63代衆議院議長、内閣官房長官、労働大臣、厚生大臣、運輸大臣、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総務会長を歴任。位階は従二位、勲一等旭日桐花大綬章。息子は元自民党衆議院議員の福永信彦。