掲載時肩書 | サンシャインシティ相談役 |
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掲載期間 | 1990/06/01〜1990/06/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1912/08/16 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 鉄道省 |
配偶者 | 酒:山陽鶴の娘(日本女子大) |
主な仕事 | 仙台、本社、興亜院、九賢会、10万人整理、国鉄球団、洞爺丸・紫雲丸事件、新幹線、サンシャインシティ |
恩師・恩人 | 石田礼助 |
人脈 | 谷口千吉(四中)、佐藤栄作、大平正芳、伊藤正義、愛知揆一、島秀雄、金田正一、今里広記 |
備考 | 三島由紀夫(母方縁戚)、歌舞伎・清元 |
1912年8月16日 – 1997年6月19日)は東京生まれ。日本の鉄道官僚、第6代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1969年-1973年)。永井岩之丞の孫。作家・三島由紀夫の父・平岡梓は従兄にあたる。大学卒業後、鉄道省に入るが退職。敗戦後に鉄道界へ復帰。下山定則総裁下では職員課長として人員整理を手がけ、加賀山之雄総裁下では文書課長として国鉄スワローズ設立の推進役となる。その後、広島鉄道管理局長、営業局長、常務理事等を歴任するが、十河信二総裁と反りが合わず 1962年に退任。翌1963年、石田禮助総裁就任にともない副総裁として国鉄復帰。6年間の補佐役を務めた後、石田の推挙もあって1969年5月27日、第6代国鉄総裁に就任した。
1.新人の地方配属基準
昭和10年(1935)春、鉄道省に入省すると新人を現地見習いという形で全員、地方に配属する。入省して間もなく坂口忠次人事課長に9人の同期生がみな呼ばれた。「背の順に並べ」と整列させられて、高い順に北から南へ、どこそこと任地を決められた。私は仙台鉄道局だった。あまり旅行好きでない私は東京から北に出たことはなかった。初めて荒川の鉄橋を渡って仙台に赴任したが、まさに東京よ、さらばだった。
5月に着任して6月には仙台駅の助役となった。帽子に金筋が一本入っているが、現場の人と一緒に便所掃除から改札、貨物の発送通知書作り、泊まり勤務など何でもやった。車掌として仙台・東京間の長距離勤務も経験したし、機関助士見習いとして蒸気機関車のカマ焚きの手伝いもした。福島・仙台間にある越河の千分の二十五の急勾配を福島方向に登ってゆくと、煙がまともにくる。身をもって現場の苦労を体験することができた。
2.終戦時の国鉄被害状況
昭和20年〈1945〉9月1日、鉄道省は運輸省に改名したが、私は渉外室幹事になった。2か月して名古屋鉄道局の業務部長として復員兵や海外からの引き揚げ者の輸送に当たった。ソ連など北からの帰還者は舞鶴で、名古屋港は中国や南方から中部地方への帰郷の入り口だったが、帰国した同胞がイデオロギーの問題などで争うのを見るのは悲しかった。
戦争は終わったが、戦時中の国鉄の被害は大きかった。爆撃や艦砲射撃で全路線の5%にあたる1600キロが被害を受け、主要都市の駅舎198が焼け、機関車は15%、客車は20%、貨車は7.5%だが、約9600両が失われた。連絡船に至っては65%が沈められ、変電所なども被災した。施設、車両の不足とは反対に乗客は終戦後次第に増え、少し後になるが、昭和22年度には一日平均の旅客が戦時中を1割ほど上回る900万人となり、主要線区では定員の3,4倍も詰め込んだ列車が走っていた。
3.下山貞則総裁の轢死事件の感想
昭和24年(1949)7月5日、下山総裁は三越本店で行方不明となり、翌6日の未明、常磐線北千住―綾瀬間で轢死体となって発見された。大雨で血痕などが流れ自殺か他殺か分からず、警視庁内も法医学会も自殺説、他殺説の二つに分かれた。当時の私の記憶をたどろう。
行方不明になる前夜、第一次解雇通告という難関を越えた下山さんは、総裁室で私たちと機嫌よく冷酒で乾杯して午後9時過ぎに車で家に帰った。玄関まで送ると「あす朝、野党の代議士が面会に来るので、誰か会っておいてくれ。結婚祝いを買ってくるので少し遅くなる」と言われた。当日、午後2時になっても出勤されないので心配になり、加賀山之雄副総裁と相談したうえ、私と牛島辰弥職員局長が民主自由党の佐藤栄作政調会長のところに相談に行った。その後、轢死体発見の臨時ニュースが流れた。
私の感想は、まず自殺説はありえない。大量解雇は法律で決められたことで、残る50万職員のためにも絶対必要だった。死の前夜、冷酒で乾杯した時の上機嫌ぶりも忘れられない。また機関車課長や運転局長を経て総裁になった下山さんは、時に一人で機関庫に行き機関士たちと話し込むほどの機関車好きだった。そんな下山さんが自分の血で機関車を汚し、機関士に迷惑をかけることをするはずがない。(後略)
4.石田礼助総裁
昭和38年(1963)5月に辞任した十河信二氏の後任として、石田氏が総裁になった。悪化していく経営を何とか立て直そうと、池田勇人首相と財界の石坂泰三氏が相談し、当時国鉄監査委員長だった石田さんを担ぎ出したものだ。石田さんが総裁に就任した日、浪人中の私は相模カントリー倶楽部にいた。そこに電話がかかり、すぐ国鉄本社に来いと言う。総裁室に駆け付けると「磯崎君、おれは総裁を引き受けたから、君は副総裁をやってくれ」と有無を言わせず、まるで命令だった。
石田さんに期待されたのは国鉄経営の立て直しであった。戦前の三井物産で腕を振るわれ、また6年以上監査委員を務め国鉄を知り尽くしておられた。日常業務は全面的に私たちに任して、石田さんは池田首相に対して運賃の「適正」な額への値上げ、財政投融資の増加、政府の国鉄への出資増額などを働きかけ、これらの一部を実現された。
また石田さんは、人命を預かり、昼夜の別なく働いている国鉄職員の給料は、他の公社職員よりも多くなくてはおかしいと常に言われ、公労委の仲裁裁定でもその点を考慮するよう主張された。自分への報酬は監査委員長時代から返上しておられ、総裁になってからは三分の一の10万円だけ受け取られたが、鶴見事故以後は全く返上し、年間ブランデ―1本だけ。ボーナスは共済組合の掛け金のために受け取られた。
5.三島由紀夫自決の夜
私の母の姉に夏子という伯母がいた。後に樺太庁長官となった平岡定太郎に嫁し四谷永住町に住んでいた。その伯母の孫が公威で、後の三島由紀夫だ。
三島が自らを消し去った昭和45年(1970)11月25日、私は東洋工業の松田恒次社長の葬儀のため朝早く空路広島に出かけた。葬儀が終わりかけたころ、国鉄本社からの連絡で三島の死を知った。三島の母倭文重から本社に連絡があったという。
夕方、東京に戻り三島の家に駆け付けると、母の倭文重は寝込んでいた。私は彼女が息子の後を追って死ぬつもりではないかと心配になり、「死んではいけない」と励ますと、「ここにいて欲しい」という。倭文重の手をとって明け方近くまで枕元にいた。
生前の三島とは何度か話をした。私は彼が文学として書き、自ら実践した「滅びの美学」にくみするものではない。だが、彼をも含めたもろもろの「失われたもの」には限りない哀惜の念を抱いており、その歴史をキチンと伝えるのが残されたものの務めであると考えている。