掲載時肩書 | 自民党全国組織委員長 |
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掲載期間 | 1956/05/30〜1956/06/05 |
出身地 | 愛媛県 |
生年月日 | 1904/09/15 |
掲載回数 | 6 回 |
執筆時年齢 | 52 歳 |
最終学歴 | 中央大学 |
学歴その他 | |
入社 | 弁護士 |
配偶者 | 見合なし結婚 |
主な仕事 | 国民党、憲政会、政友会、幹事長、大政翼賛会、軍政顧問、シンガポール、戦没者慰霊碑 |
恩師・恩人 | 犬養毅 |
人脈 | 鳩山一郎、三木武吉(ヤジ名人)、河野一郎(を応援)、久原房之介、吉田首相(嫌い) |
備考 | 犬養毅・尾崎咢堂(犬猿の仲) |
1884年9月15日 – 1957年12月27日)は愛媛県生まれ。政治家。1955年、自由民主党結党時の防衛庁長官。自民党では河野一郎派の客分格であったが、後輩の風下に立つのは潔しとしなかったのか、かなり金銭的に無理をして「砂田派」(宜軒会)を立ち上げた。傘下には池田正之輔、浜野清吾らがいたが、すぐに亡くなったため、砂田派の存在が数えられないことが多い。また晩年には全国戦争犠牲者援護会会長を務め、千鳥ケ淵戦没者墓苑の建設に熱心に取り組んでいた。
1.ヤジ名人の三木武吉君
僕らは「かけだし」だったが、三木君は憲政会におってヤジの名人としてかなり名を売っていた。奥繁三郎が議長で、奥議長の苦手が三木武吉だった。三木君のヤジがひどくなって議長が「退場を命じます」というと、三木君は守衛に外に押し出されながら、一声「議長」と叫ぶ。とたんに議長はつい「三木君、なんですか」と返事する。議長はいつも三木君にやり込められているものだから、三木君の発言には返事をするのが習性になっていたのだ。すかさず三木君は「おれは退場を命ぜられているが、発言を議長から許されているんだからもう一遍やらせい」というわけだ。これには守衛も手が出せない。三木君はこの手の名人だった。
また高橋是清(当時蔵相)が海軍の問題で誰かの質問に本会議場で「海軍は8年」と言った途端に三木君が「だるまは9年」とまぜっ返した。“だるま”の異名で有名だった高橋さんは腹を抱えて喋らず、そのまま引っ込んでしまい、答弁なしだった。三木君のヤジは非常にユーモアに富んでいた。
2.犬養毅さんの信念
大正12年(1923)9月大震災のときは、私は東京にいた。9月4日に山本権兵衛内閣ができ、犬養さんが入閣した。その頃の僕は陣笠だったが終始犬養さんと一緒で、犬養さんの行動を最後まで見ている。
犬養さんは軍部とは全く相いれない。どこまでも軍部とは対立抗争を続けなければならないという主張だった。一例としてそのころ東拓総裁を決めるのに軍部は朝鮮総督をしていた山梨半造を採用しろといろいろ言ってきた。が犬養さんは、そういうものではない、政友会のために尽くしてきた高山という立派な人物がいる。党のために身命を投げうって尽くした人を先に採用すべきで軍人の古手などを入れてはいけないと頑張った。荒木貞夫さんは(当時陸軍中将)は「そんなことを言うとあなたを殺す奴が出てきますよ」と言った。犬養さんは「よろしい。おれは殺されてもおれの信念は貫く」と言って、高山を東拓の総裁にした。
3.山下奉文大将の主張
昭和17年(1942)1月30日に代議士を辞任して親任官待遇の軍事顧問という名目でシンガポールに行くことになった。山下奉文とはほとんど毎日のように会っていた。そのため戦犯の山下裁判のときは証人として引っ張り出された。山下は気の毒な人だ。彼はマレーで戦線を打ち切れと主張していた。「ビルマに行くとか、インド攻略をやっておれば、蔣介石を追いかけまわして雲崗に逃げ込まれたように何年たっても戦争は終わらない。結局は敗戦を招くもとだ。速やかに戦争の跡始末をしろ。早くやめてしまえ」という論者だったから東条英機とはどうしても意見が一致しない。
ともかく山下は全く東条とは一致しないからあれだけマレー作戦をやっても、東条は彼を内地に帰らせなかったのだ。シンガポールから満州に直接行けという命令で露骨に追いやってしまった。
4.虫の好かぬ吉田茂さん
僕は吉田という人はもとから嫌いだったのだ。僕が中国で彼と会ったとき、彼は中国人はあまり好きじゃないと言っていた。吉田は人と話をするのに葉巻をくわえて横を向いてこっちの顔を見ないで話をする癖がある。それで私はこんなやつとは話ができん、帰る、と言って帰って来たことがある。それ以来どうも虫が好かない。
砂田 重政 すなだ しげまさ | |
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生年月日 | 1884年9月15日 |
出生地 | 日本 愛媛県今治市 |
没年月日 | 1957年12月27日(73歳没) |
出身校 | 東京法学院卒業 (現・中央大学) |
所属政党 | (立憲国民党→) (革新倶楽部→) (立憲政友会→) (立憲政友会正統派→) (翼賛議員同盟→) (無所属→) (自由党→) (日本民主党→) 自由民主党(河野派) |
称号 | 正五位 勲一等旭日大綬章 |
子女 | 長男・砂田重民(元衆議院議員) |
親族 | 甥・砂田圭佑(元衆議院議員) |
第4代 防衛庁長官 | |
内閣 | 第2次鳩山一郎内閣 |
在任期間 | 1955年7月31日 - 1955年11月22日 |
選挙区 | (兵庫県第1区→) (愛媛県第3区→) 旧愛媛2区 |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1920年5月10日 - 1942年1月29日 1952年10月1日 - 1953年3月14日 1955年2月27日 - 1957年12月27日 |
その他の職歴 | |
第2代 自由民主党総務会長 (総裁:石橋湛山、岸信介) (1956年 - 1957年) |
砂田 重政(すなだ しげまさ、1884年〈明治17年〉9月15日 - 1957年〈昭和32年〉12月27日)は、日本の政治家。防衛庁長官(第4代)、衆議院議員(9期)、自由民主党総務会長(第2代)などを歴任した。