掲載時肩書 | 前慶應義塾長 |
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掲載期間 | 1994/02/01〜1994/02/28 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1922/01/21 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶應 商高 |
入社 | 法学部助手 |
配偶者 | 初・近所娘、再婚(名取) |
主な仕事 | 中国史、米国留学、文化革命訪問、日中復交尽力、工学部→理工学部、推薦入学、湘南藤沢、ニューヨーク学院設立、臨教審、大学審 |
恩師・恩人 | 伊藤政博、及川恒忠教授 |
人脈 | 山中鏆、佐野周二、ライシャワー夫妻、教え子(藤田元司、佐々木信也、青井達也、美川英二)、橋本恕、横田郁 |
備考 | 実家:とび職 |
1922年(大正11年)1月21日 – 2007年(平成19年)9月25日)は東京生まれ。中国現代史家。慶應義塾長を戦後最長、鎌田栄吉以来歴代2番目の長さの4期16年務めた。初期に中国憲法史と中国共産党史を研究。主著は中国共産党に関する先駆的業績となった『中国共産党史研究』。次いで中華人民共和国の政治及び外交の研究を行ない、同時に日中国交正常化へ至る政策決定にも関与した。1984年から日中友好21世紀委員会の日本側座長を務め、日中関係の基礎作りに邁進した。1956年よりハーバード大学に赴任し、ベンジャミン・シュウォルツ博士他中国研究者と交わり、共産主義中国の地域研究を学ぶ。
1.文化大革命中の中国に行く
新聞社の依頼で昭和42年(1967)4月12日に香港から中国に入って約2週間、広州、上海、南京、天津、北京を巡った。北京では文化大革命の最盛期で、大学、工場、人民公社などを訪れ、研究者や学生、紅衛兵にも会って、この革命や毛沢東主義、中国の将来などを語り合った。
実権派の実態が何であり、どんな力があるのか、文化大革命とこれまでの共産主義の権力闘争とどこが違うのか、中国経済や生産に与える影響などに関心を持って、問いただした。この旅行で幼い紅衛兵をはじめとする中国の人々が、海外の事情などを全く知らされずに、一つの価値観を教え込まれた時にどうなるのかの実例を目の当たりにして、改めて閉鎖社会の恐ろしさを強く感じた。
2.日中復交に政府進言
1960年代の末頃から国際政治の構造が変わってきた。私自身も69年ごろには、日中国交正常化への実現へ向かわざるを得ないと考えるようになっていた。米国もキッシンジャー訪中などで、米中正常化を模索し始めていたし、日本の世論も国交正常化を望むようになってきた。他方、中国では66年に起きた文化大革命が収まるにつれて、国際環境の安定を望むようになり、イデオロギーから国益重視の外交に変わり、特に日本との国交正常化を望むようになっていた。
しかし、当時の佐藤栄作首相は新台湾の姿勢を崩さなかった。そこで私は何人かの政治学者と共に、佐藤内閣の間は日中国交正常化はやらず、台湾に対して精一杯の誠意を尽くし、次の内閣で正常化すべきであると進言した。結局、佐藤首相はその姿勢を貫いたが、これは台湾に対する日本の精一杯の信義を示したものであるとともに、次の田中角栄首相による日中国交正常化に伴う台湾側のリアクションを少なくするのに役立ったと思っている。
3.塾長就任後の仕事
昭和52年5月に久野洋塾長の後任として、塾長に選ばれた。塾長に就任してまず、慶応ビジネススクールを大学院経営管理研究科として、修士課程へ発展させることに取り組んだ。私はこれ以後4期、16年にわたって塾長時代に、国際化への対応に、外国人留学生や帰国子女受け入れ制度確立、外国諸大学との研究教育交流体制の整備充実、ニューヨーク学院の新設などを行った。
また、科学技術の進歩、情報化社会への対応としては、三田、日吉の新図書館の建設、工学部の理工学部への改組、研究教育支援体制としてのメディアネットの新設、湘南キャンパスでの総合政策学部・環境情報学部の新設、医学部新病棟の建設、さらに推薦入学制度の導入などを行った。
4.首相直属の臨時教育審議会の補佐
昭和59年(1984)に中曽根康弘首相の提案で、この臨時教育審議会(臨教審)を設けることになり、私は中山素平さんと一緒に会長の岡本道雄元京大学長を補佐する会長代理になった。委員には、香山健一、瀬島龍三、天谷直弘、曽野綾子さんなど論客が揃い、「青少年の非行や荒れる学校、いじめ、受験戦争」などを、毎週1回開かれる総会の下に4つの部会に分かれて議論を進めた。
生誕 | 1922年1月21日 日本東京府神田 |
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死没 | 2007年9月25日(85歳没) |
研究分野 | 中国近現代史 |
研究機関 | 慶應義塾大学 |
出身校 | 宇都宮陸軍飛行学校 慶應義塾大学経済学部経済学科 |
主な業績 | 毛沢東研究・中国共産党 |
影響を 受けた人物 | 及川恒忠 |
影響を 与えた人物 | 徳田教之 山田辰雄 小島朋之 国分良成 小此木政夫 |
主な受賞歴 | 勲一等旭日大綬章(1995年) 文化勲章(2000年) |
プロジェクト:人物伝 |
石川 忠雄(いしかわ ただお、1922年(大正11年)1月21日 - 2007年(平成19年)9月25日[1])は、日本の中国現代史家。慶應義塾長を戦後最長、鎌田栄吉以来歴代2番目の長さとなる4期16年務めた。
1991年文化功労者。1995年勲一等旭日大綬章、2000年文化勲章受章[2]。弟に石川明 (法学者)がいる[3]。