石坂洋次郎 いしざか ようじろう

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間1973/11/07〜1973/12/06
出身地青森県
生年月日1900/06/25
掲載回数30 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他慶應予
入社中学教師
配偶者津軽娘
主な仕事(弘前高女・秋田高女・中学校)教師、女高生の思い出,「陽のあたる坂道」
恩師・恩人
人脈尾崎士郎、折口信夫、河西善藏先輩・太宰治(同郷)、福士幸次郎、
備考ヰタ・セクスアリス回想
論評

1900年(明治33年)1月25日 – 1986年(昭和61年)10月7日)は青森県弘前市代官町生まれ。小説家。健全な文学を志し、『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体から圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。戦後は新聞小説に活躍。『青い山脈』をはじめとする青春物で、国民的な人気を博した。数多くの作品が映像化されている。この「履歴書」は氏のヰタ・セクスアリス物語で楽しめた。

1.虱(しらみ)とり
幼少のころ、農村から来ていた働き者の若い女中が、兄と私と弟が寝床に入るとき、茶の間の炉端で、私たちのメリヤスの下着の虱をとってくれるのが、冬の日課の最後のものになっていた。シャツなり股引なりを赤い炭火の上にあぶると、そのひだの間から虱が次々と這い出して来る。それを捕まえて炭火にくべるのだ。プチンと虱の焼ける音がする。10匹もくべると一種の臭気が漂いだす。終わって私どもが寝てしまうと、女中は自分の虱とりにとりかかる。私が眠れないときは自然に女中の仕草が見えてくるのだ。
 女中は、とった虱を火にくべたり、二本の指の爪の甲に挟んでつぶすのが面倒くさくなるのだろう、口に入れて嚙み潰すことがよくあった。その場合、プスンと澄んだ音がするのは身体が引き締まっている虱であり、身体が膨らんだ虱はブチリと濁った音が出たような気がする。口に含む方が一番効果的なのだろう。

2.妻の献身的治療
私は慶応大学中の数え22歳、うの18歳で結婚した。私たちは大井町の素人下宿の二階に移って自炊生活を始めた。ここで私は新婚生活いくらも経たないうちに急性肺炎を患い、熱が40度を越し、それが三日目あたりからグングン下降して、人事不省の状態に陥った。かかりつけの近所の医者が郷里から私の両親を呼ぶように妻に指示した。医学の力では回復が難しいと考えたからだろう。
 妻は医者に見放され、意識も無くなっていた私を裸にし、自分も裸になって、二日二晩、寝床の中で私を温め続けた。「至誠天に通じ」とでもいうのだろうか、この素朴な治療法がよく効いて、私の体温、それから意識は、少しずつ回復していったのである。この事を思い出すたびに、私は妻には頭が上がらないのだ。

3.橇(そり)辷りで気絶するなや、と。
1926年6月、青森の高等女学校から秋田の横手高等女学校に転任した。私の担任時間に生徒から「橇辷りをさせてくれ」の申し出があり、許可した。私は裏山の裾の方に立って見物していたが、生理日で運動ができない生徒も私の傍に4,5人いた。その一人が「先生、橇辷りが始まっても、気絶するなや」と言った。
 私は「気絶するなや」の警告の意味が分からず、あいまいな気持ちでいると、「いくぞ!」という元気な掛け声があって、一番手が辷りだした。あ、あぶない!あぶない!雪煙りをあげて、急斜面をつぎつぎと辷って来る女学生を5人ばかり見ていると、見学者が何を警告したのか、やっと分かった。股を広げて、小さな橇にお尻を載せる。すると、そのころ、女性はパンティなど窮屈なものを穿く習慣がなかったので、内股の秘密地帯が丸見えなのだ。それなどまだいい方で、途中で橇から投げ出されて、雪の斜面を裸のお尻で辷ったり、身体を丸めて雪まぶれコロコロ転げたりする。そして辷る者も見てる者も(キイキイ、キャアキャア)と大歓声をあげる。私の周囲の見学者たちも、「先生、見れ、見れ、A子ちゃん、まだかわらげ(無毛)だべ」
「気の毒に・・・、おらは二年生の時からこんもりしてた」「おらも・・・」「先生は中学何年の時からヒゲが生えたのげや」「教えてよ・・」。そして辷り終えて子は、
 「ああ、面白かった。おら、だども、親にも見せねえもの、先生にまるまる見られてしまって・・。その代わり試験の時、おらさ、いい点をつけてくれな」といって、私の肩をポンと叩いた。また一人は、「先生、辷って来ると、またぐらさ粉雪がスイスイ飛び込んで来て、おら、とてもいい気持だった」とわめいた。

石坂 洋次郎
(いしざか ようじろう)
1956年
誕生 1900年1月25日
青森県弘前市
死没 (1986-10-07) 1986年10月7日(86歳没)
日本の旗 日本 静岡県伊東市吉田風越
墓地 多磨霊園
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 慶応義塾大学国文科
代表作若い人』(1933年 - 1937年)
『麦死なず』(1936年)
青い山脈』(1947年)
陽のあたる坂道』(1956年 - 1957年)
あいつと私』(1961年)
『光る海』(1963年)
主な受賞歴 三田文学賞(1935年)
菊池寛賞(1966年)
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石坂 洋次郎(いしざか ようじろう、1900年明治33年〉1月15日[注釈 1] - 1986年昭和61年〉10月7日)は、日本小説家[1]青森県弘前市代官町生まれ。慶應義塾大学国文科卒。『若い人』で文壇に登場。戦後は新聞小説に活躍。『青い山脈』をはじめとする青春物で、国民的な人気を博した。数多くの作品が映像化されている。


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  1. ^ 森英一石坂洋次郎」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館コトバンク。2022年5月11日閲覧。
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