掲載時肩書 | 東京海上日動火災保険相談役 |
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掲載期間 | 2019/01/01〜2019/01/31 |
出身地 | 中国満州 |
生年月日 | 1943/10/17 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 日比谷 |
入社 | 東京海上火災 |
配偶者 | 弁護士娘 |
主な仕事 | 米研修、商品開発、システム担当、拓銀破綻、朝日統合破綻、日動と合併、NHK経営委員長、生損保一体化、 |
恩師・恩人 | 山本源左衛門、樋口公啓 |
人脈 | 下村満子、田辺義雄、樋口富雄、橋本元一、隅修三、張富士夫、大橋洋治、 |
備考 | 満州引揚げ |
生命保険、火災保険業界でこの「履歴書」に登場したのは、弘世現(日本生命)、川井三郎(協栄生命)、川崎大次郎(第百生命)、新井正明(住友生命)、渡辺文夫(東京海上火災)、後藤康男(安田火災)に次いで石原氏は7人目であり、東京海上では二人目となる。
氏が大成するには2つの経験が大きく影響したと思える。一つは、入社後大阪などで営業経験し、40代前半で全く畑違いの情報システム管理課長と開発部次長が与えられた。自分以外はプログラミングのプロばかりで、いくら説明を聞いても内容がよくわからない。考えた末、週末を除いて56日間、連続で飲み続けた。酔ってしまえば、正直に「わからない」と言えるからだった。もともとシステムについて学ぶため、打ち解けるのが目的だったが、そのうち彼らの意外な悩みが見えてきたことで、仲間意識を深めるのに役立った。また、発注側の火災新種業務部に10年いて、システムを使う側の苦労も理解できた。だからシステムの開発とそれを利用する両方の苦労を経験したことになる。
他の重要な経験は、取締役となり北海道本部長として赴任すると、バブル崩壊で拓殖銀行の破綻に遭遇し、その処理に奔走したことだ。その破綻直前まで、拓銀の資本支援を本店に「最悪の事態になれば影響は北海道全域に及ぶ」と訴え続づけたが、叶わなかった。また、道内の有力代理店との取引で、損害額や過失を査定する判断ではその代理店は自分の契約者の立場にのみ固執し極端な主張を繰り返していた。社員の忍耐も限界、利益担保も限界となり、ついに苦渋の取引解消となった。北海道拓銀の破綻や有力代理店との取引解消は苦労の連続だったと思うが、人情の機微にも触れ大きく人間的に成長したものと思われる。
そして51歳常務の時、本店に戻され「事務システム」担当となる。事務削減を目指すため「減らし、移し、なくす」原則で、目玉は保険料集金のキャッシュレス化だった。また、2年目に専務になり、検査部門も加わり、現場のミスや不正をチエックする裏方の仕事を担当した。しかしこれで、営業や管理業務、特にシステム業務に精通することとなり前任樋口社長の信頼を得た。会社はこの頃、これから生損保を巻き込む大再編に舵を切っていたからだ。「統合で一番コストをかけなければならないのはシステムだ。だが、どれだけコストをかけるべきかを決断するのは難しい。様々な部門を経験し、バランス感覚のすぐれた君に任せるのが一番だ」と抜擢人事の理由を聞かされる。氏はこの期待に見事に応えた。
石原 邦夫(いしはら くにお、1943年(昭和18年)10月17日 - )は、日本の実業家。東京海上日動火災保険相談役、経団連副会長[1]、日米経済協議会会長、東京急行電鉄監査役、日本郵政社外取締役、国土審議会会長代理、日本情報システム・ユーザー協会会長。東京海上ホールディングス及び東京海上日動火災保険の初代社長・会長や日本損害保険協会会長、経済同友会副代表幹事、三菱東京UFJ銀行取締役、NHK経営委員会委員長などを歴任。