掲載時肩書 | 日産自動車相談役 |
---|---|
掲載期間 | 1994/11/01〜1994/11/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1912/03/03 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 東北大学 |
学歴その他 | 浦和高 |
入社 | 日産自動車 |
配偶者 | 菓子屋娘 |
主な仕事 | 経理部、人員整理、輸出担当、国内担当、サニー、多角化、 佐島マリーナ、米・英国進出、同友会代表 |
恩師・恩人 | 水上達三、川又克二 |
人脈 | 畑和、西田修平、白洲次郎、石橋幹一郎、PR(ザ・ピーナッツ、クレイジー)、大来佐武郎、労使協調(川又・塩路一郎)、森英恵 |
備考 | 労使対立(塩路一郎) |
1912年3月3日 – 2003年12月31日)は東京生まれ。実業家である。日産自動車社長、日本自動車工業会会長、経済同友会代表幹事として、日本の自動車産業や財界活動に大きな影響を与えた。野心的な海外急拡大方針は労連の塩路一郎委員長の反対を無視する形で進められたため、石原社長と塩路、すなわち新経営陣と労組の関係は悪化した。また、川又克二会長は塩路を支持し石原社長を批判したため、社内の混乱は拡大した。この社内抗争で、石原は1983年に川又を相談役に退け、まず経営陣内の主導権を掌握した。続いて、1982年に全民労協副議長となっていた塩路への本格的攻撃を開始した。1984年に塩路の女性問題が発覚すると、石原による社内改革の主張が工場勤務社員からの支持を集めた。彼らは塩路に対し、長年に及ぶ組合内独裁や労働貴族と呼ばれる豪華な生活に対して不満をくすぶらせていた。石原は自らが会長になった後の1986年2月には塩路を全ての役職から退かせる事に成功した。
1.日産自動車のルーツ
昭和12年(1937)7月、日産自動車に入社した。この会社のルーツは、日産コンツェルンの説明から始める必要がある。コンツェルンの創始者、鮎川義介は東京大学卒業後、米国で可鍛鋳鉄の技術を学んだ技術者だが、経営の才があり、明治43年(1910)に戸畑鋳物を設立、大正の末〈1925〉には義弟・久原房之助から久原鉱業を引き継いだ。昭和3年(1928)にこれを改組したのがコンツェルンの持株会社・日本産業だ。「日産」は日本産業の略称だ。傘下に日本鉱業(現在のジャパンエナジー)、日立製作所、日本水産などを抱え、新興財閥として発展した。
鮎川はその力を結集して、三井、三菱、住友など「他の企て及ぼし得ざる」事業への進出をめざす。それが昭和8年(1933)12月26日の「自動車製造株式会社」設立であり、翌年、社名を「日産自動車株式会社」に改めた。自ら初代社長となった鮎川は自動車工業が国家的・国際的に有意義であること、長期的観点から大量生産が重要なことを繰り返し語っている。
2.「サニー」で大衆車業界トップに
「日産自動車で働いていて、最もうれしかったのは何か」と聞かれて、「サニーが売れたことだ」と答えた。昭和41年(1966)のサニーのヒットで、日産は大衆車市場でもトップランナーの地位を固めた。国内営業担当としては、イザナギ景気に支えられ幸運だったが、まさに販売冥利に尽きる仕事ができたと思っている。
この仕事で、私が最も腐心したのは、販売会社のネットワーク作りだ。日産車を売ってもらう各販売会社に呼び掛けて、資本や従業員を出してもらい、サニーの販売会社を作れば、それなりの形が整う。しかし、それでは従来の車の販売力が弱くなる恐れがある。発想を変え、日産の車の販売にタッチしていなかった人たちに協力してもらい、全く新しいサニー系の販売会社網を構築しようと考えた。
当時の営業は車種別ではなく地域別に管理していたので、営業部員がそれぞれ担当地域の有力者を訪ねて、「サニーの販売会社をやりませんか」と勧誘した。発売までに派手な宣伝をした効果もあり、「サニーを売ってみたい」と先方から連絡してきたケースもあった。農協、建設、各種の卸売業など新規参入組の業種はバラエティーに富んでいた。この新しい販売会社の努力なしには、サニーが日産の主力車種の一つとして定着することもなかっただろう。
3.労働組合と対立
国際化戦略で英国進出計画をめぐる労働組合との対立は世間でも話題にされた。これが日産のイメージを下げたことは否定できない。労使協調路線を維持しながら、もっと上手にできなかったかという批判があることは承知している。しかし、それは当時の労働組合あるいはそのリーダーの実態を知らない人の言うことだ。恥になるが真実を書いておくべきだろう。
塩路一郎君は当時、日産系労組の連合体である自動車労連と自動車産業労働者全体の組織である自動車総連の会長を兼ね、絶大な権力を握っていた。社内では、労使協調の慣行をいいことに役職者の人事に介入し、管理職なのに彼の子分のような者もいた。彼らを連れて銀座のクラブを飲み歩いたりして、自分が会社を動かしているような態度だった。
私はこの労使関係を正常化することが社長としての使命の一つと考えた。58年(1983)6月には、労務に関係なかった細川泰嗣常務(後に副社長)を労務担当とし、正常化に努力してもらった。初めは、役職者でも経営側につくか組合組につくかで揺れている感じがあった。塩路君が経団連記者クラブへ行って、英国進出反対を表明するにおよび、本社勤務者を中心に、塩路批判の声が上がった。後に彼のスキャンダルが明るみに出て、労働組合は急速に体質改善が進む。
私が社長退任時に「エネルギーの6,7割を組合の問題に費やした」と言ったのは、偽らざる感想だし、そうせざるを得なかったのだ。