掲載時肩書 | 衆議院議員 |
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掲載期間 | 1971/10/09〜1971/11/06 |
出身地 | 福岡県 |
生年月日 | 1889/08/18 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 神戸高商 |
入社 | 内務省 |
配偶者 | 久原房 之助長女 |
主な仕事 | 警視庁、台湾総督秘書、欧米視察1年半、朝日(24年)専務、衆議員(鳩山)、総裁選、訪台、衆院議長、体協会長 |
恩師・恩人 | 下村海南 |
人脈 | 坂本繁二郎、有馬頼義、正力松太郎、杉村楚人冠、緒方竹虎、美土路昌一、藤山愛一郎、、河野一郎、出光佐三 |
備考 | 石橋正二郎(娘が長男嫁)、次女・好子(シャンソン) |
1889年(明治22年)8月18日 – 1981年(昭和56年)9月20日)は福岡生まれ。政治家。神戸高等商業学校、東京高等商業学校専攻部在学中は相撲選手として活躍。1928年(昭和3年)、朝日新聞勤務時代に合気道創始者植芝盛平に入門、朝日新聞社内に合気道を広めた。石井派は選挙の都度勢力を減らしていったが、側近の坂田道太、田中伊三次、中垣國男、灘尾弘吉、長谷川峻らが損得抜きで最後まで石井を支え続けた。晩年は岸信介らとともに親台湾派の長老として党で重きをなし、同じ親台湾派の福田赳夫を一貫して支持した。衆議院議長(第54代)、副総理、法務大臣、通商産業大臣、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、運輸大臣、商工大臣、朝日放送社長などを歴任。
1.御大典の祝賀パレードを先導する
警視庁に就職した翌年の大正3年(1914)、大正天皇即位の御大典が挙行され東京で祝賀のパレードが行われた。警護に当たる警視庁の面々はみな即席に乗馬を習ったが、私も馬は初めてであった。その初めての私が、乗馬姿勢の良さを見込まれ、行列の先乗を務めることになった。陛下のお出ましに合わせて二重橋から出発するのだが、皇居前には軍楽隊が待ち受けていて、行列の出発と共に大音響を出すという。音響に驚いて馬が暴走してはいかんというので、騎馬巡査に命じて夜通し東京中を乗り回させ、馬をフラフラにしておいた。効果はてき面で、出だしは快調だった。馬場先門あたりに祝賀アーチが立っていて無数の旗が順風でひらめいている。これに見とれたのか、私の馬が歩みをパタリと止めてしまった。腹をけっても不動の姿勢は崩れない。泰然と道の中央に立ったままである。行列は背後に迫ってくる。暴走してもいいから、思い切り蹴飛ばしてやろうと意を決した途端に動き出した。まさに天祐であった。
2.下村海南台湾長官の助言
警視庁をやめ台湾行きを決意したのは大正4年(1915)12月である。その年の11月、下村さんが逓信省の貯金局長から台湾総督府の民生長官に抜擢され、下村さんの推薦で私は台湾総督秘書官の辞令を受けた。赴任早々下村さんに教えられたことがある。「これからは僕の片腕として助けてもらうことになるわけで、君からアドバイスをもらうことが多くなる。だが人間には虫の居所というものがある。どんなに良い忠言もうわの空で聞いていたのでは効果がない。顔の色を窺えと言うのではないが、話をする時機というものを心得てくれ」と言われた。この助言は、その後いろいろな人と接する場合、大いに参考になった。
視野の広さを見込まれて民生長官に選ばれた下村さんだったが、その期待に応えて大きな実績を残した。台湾は経済基地であって、政治基地にしてはならないというのが下村さんの考えであった。高雄の築港、日月潭のダム建設、農地用水灌がいなどを推進した。そして日本人、台湾人を問わず教育の普及に熱心だった。日本統治に好悪両面があるとしたら、下村民生は良き面を代表していたと言えよう。
3.緒方竹虎氏を悼む
彼とは朝日新聞に入って知り合った。年齢は私より一つ上、同郷ということもあってウマがあった。当時から人を惹きつける何かを備えていた。緒方が整理部長時代、私は「君のつくる紙面はまるで官報だ」と笑ったことがあった。ロンドンで学び、その折に「タイムズ」紙の感化でも受けたのか、三段以上の見出しは滅多につけなかった。しかし、主筆になってからの緒方の活躍は目覚ましかった。天下の主筆と呼ぶに恥じないものがあった。二・二六事件の日、社を占拠した皇道派将校と応対し、声明を刷れという要求に断固はねつけるなど言論弾圧に抗したエピソードは数多い。
昭和18年(1943)暮れ、緒方は副社長になった。私はこれに反対し、緒方を筆陣の首座に置くべしと主張した。主筆を離れれば世間が放っておかず、朝日を離れることになるだろうという私の考えだった。果して翌年7月、小磯内閣の国務相兼情報局総裁として入閣した。政治家としてはわずかにその片鱗をとどめただけで経綸(けいりん)を行うまではいかず死んだが、将に将たる器で惜しい人材であった。
石井 光次郎 いしい みつじろう | |
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生年月日 | 1889年8月18日 |
出生地 | 福岡県久留米市 |
没年月日 | 1981年9月20日(92歳没) |
出身校 | 神戸高等商業学校(現・神戸大学) 東京高等商業学校専攻部(現・一橋大学) |
前職 | 朝日新聞社専務取締役 朝日放送代表取締役社長 日本体育協会会長 日本ゴルフ協会会長 日本相撲協会横綱審議委員 |
所属政党 | (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 福岡県久留米市名誉市民 |
配偶者 | 妻・石井久子 |
親族 | 長男・石井公一郎 次女・石井好子 |
第54代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1967年2月15日 - 1969年7月16日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第21代 法務大臣 | |
内閣 | 第1次佐藤第1次改造内閣 第1次佐藤第2次改造内閣 |
在任期間 | 1965年6月3日 - 1966年12月3日 |
第18代 通商産業大臣 | |
内閣 | 第1次池田内閣 |
在任期間 | 1960年7月19日 - 1960年12月8日 |
内閣 | 第1次岸改造内閣 |
在任期間 | 1957年7月10日 - 1958年6月12日 |
内閣 | 第1次岸内閣 第1次岸改造内閣 |
在任期間 | 1957年5月20日 - 1958年6月12日 |
その他の職歴 | |
第15-16代 運輸大臣 (第4次吉田内閣、第5次吉田内閣) (1952年10月30日 - 1954年12月10日) | |
第28代 商工大臣 (第1次吉田内閣) (1947年1月31日 - 1947年5月24日) | |
衆議院議員 旧福岡3区 当選回数 11回 (1946年4月11日 - 1972年11月13日) | |
初・第6代 自由民主党総務会長 総裁:鳩山一郎 (1955年 - 1956年) 総裁:岸信介 (1959年 - 1960年) |
石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年〈明治22年〉8月18日 - 1981年〈昭和56年〉9月20日)は、日本の政治家。衆議院議長(第54代)、副総理、法務大臣、通商産業大臣、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、運輸大臣、商工大臣、朝日放送社長を歴任した。久留米市名誉市民。