掲載時肩書 | 物理学者 |
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掲載期間 | 2009/11/01〜2009/11/30 |
出身地 | 愛知県 |
生年月日 | 1940/02/07 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 名古屋大学 |
学歴その他 | |
入社 | 名大助手 |
配偶者 | 理学部 秘書 |
主な仕事 | 京大助手、32歳CP対称論文、東大助教授、京大教授、京都産業大、社会活動 |
恩師・恩人 | 坂田昌一 教授 |
人脈 | 小林誠(共同)、南部陽一郎(墨付・共同受賞)、下村脩(同時受賞)、坂田文彦(恩師息子) |
備考 | 悪筆,英語嫌いを広言 |
1940年〈昭和15年〉2月7日 – 2021年〈令和3年〉7月23日)は愛知県生まれ。理論物理学者。専門は素粒子理論。京都大学基礎物理学研究所所長、日本学術会議会員を歴任した。2008年、「小林・益川理論」による物理学への貢献でノーベル物理学賞を受賞。京都大学名誉教授、京都産業大学名誉教授。名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構名誉機構長・特別教授。
1.名古屋大学への受験作戦
父は家業の砂糖問屋を継がせることを希望したが、大学受験を1回だけの条件で許可してくれた。受験勉強では慎重に作戦を練った。英語で人並みの点をとれる自信は全くない。だが、英語は零点でも、ほかの教科でカバーすればいいと。当時の国立大学の試験科目は英国数理社の5教科だった。名大は1教科200点、1000点満点で450点とれば大体合格できた。英語を完全に捨てても、残り800点である。得意な数学と理科で、9割の正解を目指そう。国語は何とかこなし、日本史と世界史は年号や事柄を徹底的に覚えて点数を稼ごうと決心して、猛勉強した。1月の1か月間は1日10数時間も勉強に没頭した。
作戦は成功した。合格後に大学に点数を聞いたら、英語は200満点中30数点、その他の教科はほぼ計画通りの点数だった。結局、高校時代に坂田昌一博士の存在を知ったことと、家の商売を継ぎたくないという2つの理由が、私の将来方向に大きな影響を与えた。
2.坂田昌一先生
私の師である坂田先生は、湯川秀樹、朝永振一郎両博士と並ぶ、日本の素粒子物理学の大家である。坂田先生は、京都帝国大学で湯川博士に学び、理化学研究所、大阪帝大などを経て、1942年に設立間もない名古屋帝国大教授に31歳で就任された。名古屋大学では湯川博士のノーベル賞受賞の業績である中間子論を補完する2中間子論を発表された。55年に発表された素粒子の複合模型「坂田モデル」に、高校時代の私が強い影響を受けた。
坂田先生の活躍は学問の場にとどまらなかった。56年には中国科学院長からの招聘で北京を訪れ、日中化学交流の端緒を開かれた。また、ラッセル・アインシュタイン宣言を受けて、原子力の平和利用の運動についても指導的な役割を果たされた。
3.湯川秀樹博士を怒らす
私が京都大学理学部に助手として赴任した1970年は、湯川先生が京大を定年退官された年だった。しかし、月1回先生を囲む定例セミナーをやることになった。湯川先生から「君はどこの学生かね」と聞かれ、「名古屋大学の坂田昌一先生のところから来ました益川といいます」と答えると、「そうかね。で、君は何をやっている」ということになった。
それで当時研究していたことを縷々説明したのだが、私は坂田先生のことを心から尊敬しているので、言葉の端々にそれが出てくる。すると湯川先生の機嫌がだんだん悪くなってきた。
4.南部陽一郎先生
ノーベル物理学賞の受賞で、何よりも感激したのは尊敬する南部先生と一緒に受賞ができたことである。南部先生が1960年代に発表し、今回の受賞業績となった「対称性の自発的破れ」という考え方は、なぜ物質には重さがあるかという難問を解き明かすカギとなり、宇宙や物質が存在する理由そのものにかかわる理論である。それにとどまらず、量子色力学における先駆的な研究、ひも理論の提唱など、数々の画期的な仕事をされた南部先生のことを、私は最高の素粒子物理学者だと思っている。
南部モデルは素粒子物理の様々な問題を調べるのに極めて有用だった。私は、素粒子の強い相互作用を調べるための絶好の手段として頻繁に使っていた。
氏は‘21年7月23日、81歳で亡くなった。「私の履歴書」の登場は12年前の’09年11月で69歳の時でした。氏の「私の履歴書」初日は「へそ曲がり人生」がテーマとなっていた。その一端を随所に書いてくれている。
1.へそ曲がり
①「私の履歴書」の題字は執筆者が書くのが通常ですが、氏は「悪筆のため勘弁させていただく」として活字文字となった。長嶋茂雄氏は脳梗塞で右手が使えないため、左手練習で懸命に書いている。
②ノーベル賞の受賞スピーチも英語が通常なのに「英語が苦手だから」と日本語で貫いた。
③受賞決定の感想を聞かれた時、「たいしてうれしくない」の理由
ノーベル財団の事務局が受賞決定を伝えた後、「10分後にプレスリリースする」と告げられてカチンときた。どんな権威のある賞でも辞退の可能性はある。こちらの都合も考えないやり方に腹を立てた。
2.内科部長に「バカ」の暴言
名古屋大学理学部の4年になった1961年5月、大学の集団検診で、結核の初期症状である肺浸潤の疑いありといわれた。症状は軽いので放っておいても治るかもしれないが、一応は入院したらどうかと医者は勧める。そこで名古屋市内の病院に入院した。
病院では言われるとおりにヒドラやパスといった当時の薬を服用し、痰検査を定期的に受けた。検査は胃液をとって、菌を培養して調べる。菌は減りかけているという。検査は3回行って、判定をするということだった。ある日、内科部長が大勢の付き添い人を連れて、大名行列よろしく回診に来た。その時、私はベッドで一生懸命に計算をしていた。検査回数が2回でも4回でもなく、なぜ3回なのか。その根拠を知りたくて、いくつかの仮定の下に計算していた。
見とがめた内科部長が、一体何をしているのですか、と聞く。私は検査の信頼性について計算していると答え「なぜ検査は3回なのか」と訊ねたが、相手は答えられない。そんなことも分からずにやっているのかと呆れかえり「おまえはバカか」と口走った。
大病院の内科部長がどれだけ偉いか知らないが、といった気分で暴言を吐いてしまった。
3.小林・益川理論の難題解決は湯上がりのひらめき
CP対称性の破れを説明する物理モデルを考える。まずクォークという素粒子は、ものを小さく分割していくと、分子や原子というレベルの粒子からできている。その原子は原子核とその周囲を回る電子からなる。電子は素粒子の一つである。そして原子核は陽子と中性子とからできている。この陽子や中性子を作っているのがクォークである。
我々が研究を始めたころクォークは3種類(アップ、ダウン、ストレンジ)が確認され、4つ目があると予測されていた。私と小林誠君の作業が始まった。私がまず強引に理論式を造る。それを小林君がこれはダメですとか言ってやり直す。私と小林君の産みの苦しみが始まった。そして約1か月。運命の日がやってきた。私はその夜に風呂の中で問題を考え続けていた。湯船から立ち上がったところで、「クォークが4つでなく、6つのモデルを考えればいい」とひらめいたのだった。それで私が日本語で論文の下書きをし、約1か月かけて草稿を作った。それを小林君が英語にした。単に翻訳をしたというのではなく、私の論理を追いながら、不要な部分を短くし、もとの半分ぐらいの長さにして出来上がった。
益川 敏英 ますかわ としひで | |
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生誕 | 1940年2月7日 日本・愛知県名古屋市中川区 |
死没 | 2021年7月23日(81歳没) 日本・京都府京都市 |
居住 | 日本 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 物理学 理論物理学 素粒子物理学 |
研究機関 | 名古屋大学 京都大学 東京大学 京都産業大学 |
出身校 | 名古屋大学理学部 |
博士課程 指導教員 | 坂田昌一 |
主な業績 | CKM行列の導入 小林・益川理論の提唱 |
影響を 受けた人物 | 南部陽一郎 大貫義郎 |
主な受賞歴 | 仁科記念賞(1979年) J.J.サクライ賞(1985年) 日本学士院賞(1985年) 朝日賞(1994年) 文化功労者(2001年) 文化勲章(2008年) ノーベル物理学賞(2008年) |
プロジェクト:人物伝 |
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益川 敏英(ますかわ としひで、1940年〈昭和15年〉2月7日 - 2021年〈令和3年〉7月23日[1])は、日本の理論物理学者。専門は素粒子理論[2]。学位は、理学博士(名古屋大学・1967年)(学位論文「粒子と共鳴準位の混合効果について」)[3]。京都大学名誉教授、京都産業大学名誉教授。名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構名誉機構長・特別教授。元益川塾塾頭。愛知県名古屋市出身。2008年ノーベル物理学賞受賞[4]。